タイトル馬占山が官職に就くまで

(『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)

馬占山は、1885年11月30日に吉林省・懐徳県の貧農の家に生まれた。

1644年に清朝が誕生すると、自らの祖先の地(中国の東北地方)を「龍興重地」と称して、満民族と住民証を持つ者以外はそこに出入りするのを禁じた。

出入りを禁じるだけでなく、周辺に950kmにも及ぶ防壁を作った。

防壁といっても、柳の枝で作った「まがき」であったが、これに囲まれる地域を「柳条の辺」と呼んだ。

だが1675年、1686年、1697年と、3度にわたって柳条の辺が拡げられた結果、清朝の聖地の封禁は形骸化していった。

馬占山の祖父・馬万竜と、その妻・劉氏は、難民として河北省から吉林省・懐徳県に移住したという。

懐徳県は、モンゴルに接する辺境であり、馬賊が出没する地であった。

もともと中国には盗賊が各地にいたが、清朝はこれを「匪」と呼んだ。

懐徳県に移住した馬家は、地主の所で働くようになった。

ある時、馬家の門前に食を乞う夫婦が現われた。

杜氏を名乗るその夫婦に対して、劉氏は「行く所がないから我が家においでなさい」と言った。

こうして杜氏夫婦は馬家に住むことになったが、やがて杜夫婦の娘の杜賛義を、まだ幼い馬占山の将来の嫁にもらう婚約が成った。

馬占山は7~8歳になると、地主の牧童として働き始めた。

仕事の合間には馬術を学んだ。

馬占山が12歳の時、母が双生児を産んだ。
しかし馬家が貧しいため、産後の母と双生児は死んでしまった。

こうして馬家には、占山の父(35歳)、12歳の占山、7歳の妹、そして15歳の杜賛義が残された。

ある日、杜賛義は自分で髪を巻き立てた。
これはこの地方で妻となった事を意味する。

杜賛義は15歳にして、馬家を支える意志を表示したのであった。

馬占山は19歳になった1903年に、より高い賃金を求めて、大地主の姜家の牧童となった。

姜家は広大な土地を持ち、県城内に商店まで持っていた。

占山は朝早くから放牧に出て、日没に戻るという日々を重ねた。

ある日、一頭の馬が失踪した。
姜家は占山が馬を盗んで売ったと考え、警察に突き出して賠償金をとろうとした。

当時の軍や警察は、地主や地方官僚の番犬であった。
だから姜家の訴えを一方的に取り上げ、無実を主張する占山を拷問にまでかけた。

占山は頑強に抵抗し、牢屋にぶち込まれた。

この事を知った占山の父は、何とかして釈放してもらおうと走り回り、わずかな家財を売り払って金をつくり、失踪した馬の賠償金を払った。

占山は釈放されたが、父が不当な賠償に応じたと知ると激怒した。

そして怨念を抑えきれずに、家出をして盗賊の仲間入りをした。
1903年の冬であった。

馬占山が盗賊になるために登ったハラパラツ山は、古来から交通の要衝であった。

そこには盗賊が住みついていたが、やがて占山は10数人の盗賊の首領となった。

占山が山に登って数ヶ月後のある夜、彼は手下を率いて姜家に乗り込んだ。

あわてた姜家の当主は「どんな物でもお持ち下さい、ただし命だけはお助け下さい」と頼んだ。

だが占山は「私は何も要らない、お前の命が欲しいだけだ」と答えた。

この宣告に家族は泣き出し、当主はひざまずいて必死に命乞いした。

占山は、手下に命じて足腰が立たなくなるほど打ち据えた後、「今日は助けてやる」と言って帰っていった。

姜家はこの後、家族ともども県城内に引っ越した。

1904年に日露戦争が始まると、中国の東北地方の人々は戦火にさらされた。

戦争に巻き込まれて、数百万の人々が殺傷され、戦場近くの村はほとんどが廃墟となった。

馬占山は日露戦争の殺戮を見聞して、自らも反省し、馬賊をやめようと考えるようになった。

戦争が終わると、清政府は東北地方にいる馬賊や自警団を利用しようとした。
戦後の混乱を鎮めるのに清の正規軍だけでは無理と見て、馬賊などを雇おうとしたのである。

それを知った占山は、ただちに山を下りて、清軍の地方ゲリラ軍に編入された。

ただしこれは、清の正規軍ではなかった。

1908年に清政府は、張勳・提督を昌図府に派遣した。

張勳は自軍の拡充のため、部下の馬瑞麟・統領に命じて、ゲリラ部隊を直属部隊に編入した。

この時に馬占山は、正式に清軍の哨官となった。

これより1年前の1907年に、清政府は東北地方に省制を敷いて、「東三省・総督」を置いた。

徐世昌が初代の東三省・総督になり、張勳の部下だった許蘭州が黒竜江省・巡撫になった。

馬占山は、許蘭州の下で働くことになった。

当時、昌図・洮南・蒙古と結ぶ三角地帯は、盗賊や匪賊の跳梁が激しかった。

馬占山は盗匪と戦って、優れた軍才を発揮した。

ロシアは日露戦争後も中国への侵略を諦めず、蒙古族に反乱を起こさせようとした。

ハルビンのロシア領事館がその謀略の基地となり、蒙古族の不平分子を買収した。
その中の1人が「陶古陶胡(トカトコ)」で、彼は蒙古の旧貴族で、日露戦争の前からロシアの密偵をしていた。

トカトコは反乱を起こし、徐世昌は鎮圧のため元馬賊の張作霖を起用した。1908年のことである。

当時、トカトコの他にも自音大賚という蒙古人の匪賊がいて、張作霖はこれとも戦った。

1909年に作霖らは勝利し、自音大賚を殺して、トカトコをロシア領へ追い払った。

この功績で作霖は頭角をあらわし、日の出の勢いとなった。

張作霖の部下の1人に、呉俊陞がいた。

呉俊陞は、馬占山の勇気と馬術に注目し、直属の部下とした。

1911年に辛亥革命が起きて清王朝が崩壊すると、東北地方でも政局が混乱した。

その中で張作霖は軍事力を拡大していき、東北の実権を握った。

馬占山も第三団少校連長に昇進したが、軍閥の悪習(アヘンの吸飲など)に汚染されていった。

1928年に、日本軍が張作霖を爆殺する事件が起きた。

この事件で上司の呉俊陞が死ぬと、馬占山は黒竜江陸軍・歩兵第三旅長に任命された。

(2021年5月30日に作成)


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