(『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)
郭松齢は、奉天の陸軍速成学堂を卒業後、盛京総督衛門の衛門排長に任官した。
その後、1913年に北京の陸軍大学に入学し、卒業後は北京講武堂の教官になった。
やがて故郷に戻ることにし、奉天講武堂の教官になった。
ここで張学良と親交を結び、1920年に学良が衛隊族長に就くと、その参謀長に就いた。
1924年の第二次・奉直戦争で、郭松齢は戦功が著しく、奉天軍・第三副軍長に任ぜられた。
郭松齢は、反乱を起こす前の1925年秋に、李景林および馮玉祥と反張作霖の密約を結んだ。
これを知った張作霖・張学良の親子は、25年11月22日に郭松齢にあてて打電し、「ただちに奉天に帰還せよ」と命じた。
松齢は事が露見したと悟り、張作霖の退陣を求める電報を23日に送った上で、24日に国民軍との戦いをやめて、反張作霖の旗を掲げたのである。
郭松齢は当初、張学良の名で指令を発し、11月27日には山海関を越えて、29日に綏中に侵攻した。
次いで自軍を「東北国民軍」と改称し、奉天に向けて進軍した。
奉天にいる張作霖は大いに動揺し、日本の関東軍に「郭松齢軍の進軍を阻止してほしい」と要請した。
急場をしのいだ作霖は、12月12日に自ら軍を率いて郭軍を迎撃し、激戦となった。
この後も戦いは続いたが、12月23日に郭軍は敗れて営口に逃げた。
そして追撃する馬占山の軍に逮捕され、銃殺された。
手柄を立てた馬占山は、26年に陸軍騎兵・第十七師・師長に出世し、奉天軍の重鎮となった。
だが占山は、阿片を吸い、4人の愛人を持つなど、悪習に染まっていた。
(2021年6月20日に作成)