(『日本共産党の研究』立花隆著から抜粋)
(しばらくは共産党の誕生やコミンテルンの話で、日本共産党の話は出てきません)
19世紀の半ばに、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが共産主義の運動を始めた。
ただしマルクスの理論は、社会主義運動の中では必ずしも多数派ではなく、あくまで1つの潮流にすぎなかった。
当時は共産党は存在せず、各国の共産主義運動は「社会民主党」の名で活動していた。
その中で最大のものはドイツ社会民主党で、ウラジーミル・レーニンを含めて皆が「革命はまずドイツで起きる」と信じていた。
ロシアの社会民主労働党は小さな組織で、その分派であるレーニンの率いるボルシェヴィキはさらに小さかった。
そしてボルシェヴィキの組織の在り方である民主集中制(党中央の独裁制)は、共産主義運動の中で特異なものであった。
ドイツ社会民主党の指導者の1人であったローザ・ルクセンブルクは、「レーニンの党は超中央集権的で、党中央だけが考えて決定し、残りは盲従することになる」と厳しく批判した。
ローザは、ロシア革命が1917年に成功した後にも、「このままいけば党の指導者たちが支配し、労働者の代表は指導者の決定に満場一致で賛成することになる」と述べた。
これは、その後のロシア(ソ連)を言い当てている。
ロシア革命後、レーニンは「コミンテルン(国際共産党)」を創設し、世界革命を目指した。
日本共産党が好んで引用するエンゲルスの『共産主義の原理』には、次の一節がある。
「問 革命は1国だけに単独で起こりうるか。
答 いや、共産主義の革命は1国だけでなく、すべての文明国、少なくともイギリス、アメリカ、フランス、ドイツで同時に起こるだろう。」
ドイツでの革命が、世界革命の導火線になるはずだった。
マルクスによれば、社会主義革命は資本主義が成熟した段階で起こるはずだった。
従って、ロシアという後進国で最初に起きたのは、予想外だった。
当時の考えでは、後進国のロシアが社会主義化しても、1国だけでは生き延びる事ができないので、ヨーロッパに革命が波及する必要があった。
グリゴリー・ジノヴィエフは、コミンテルンの機関紙『共産主義インターナショナル』の創刊号に、こう書いている。
「内乱の炎は、全ヨーロッパに燃え上っている。
ドイツにおける共産主義の勝利は目前だ。
おそらくイギリスですら、資本主義は1~2年しかもたない。」
実際に当時は、第一次世界大戦の中で、ドイツ帝国とオーストリア帝国は崩壊し、ヨーロッパの各地で革命的な情勢が起きていた。
ボルシェヴィキはドイツでの革命に全力を傾け、「ドイツ革命の実現のためには、われわれ全員が死んでも悔いはない」とまでレーニンは言った。
コミンテルンは、世界革命を目指すために創られ、規約ではロシア革命をモデルとした。
そして各国の共産党は、コミンテルンの支部となった。
ボルシェヴィキは、政権を奪取した翌年に(1918年に)「ロシア共産党」に改名したが、ロシア共産党も「コミンテルン・ロシア支部」となった。
しかしこれは形式上で、実質的にはロシア共産党がコミンテルンを動かした。
コミンテルンは、21ヵ条の厳格な加入条件を設けた。
加入する組織は、コミンテルン執行委員会の決議に従わなければならず、党の規約・綱領から指導部の人事までコミンテルンの承認を得なければならなかった。
さらにコミンテルンの決定や通達を党の機関紙に発表する義務や、ボルシェヴィキ的でない者を党から追い出す義務もあった。
コミンテルンの目的は、次のように規定されていた。
「資本主義の打倒、すべての階級を廃止し、プロレタリアート独裁と国際ソビエト共和国の樹立を目的とする」
そして目的実現のためには「武装闘争を含む一切の有効な手段をとる」とした。
ロシア革命の影響で、各国の共産主義者にコミンテルンの呼びかけに応じる者が出た。
そして各国で、社会民主党から分裂して共産党を創るグループが出た。
これが各国の共産党の発端である。
日本では、コミンテルンの支部として日本共産党が誕生するまで、共産主義の運動が無かった。
だから日本人は皆、共産主義運動は日本共産党がやる事だという固定観念から長く抜け出せなかった。
「共産主義とは、党が絶対のもので、指導部が絶対のものなのだ」という勘違いが、日本では長く続いてしまった。
日本では、天皇制が浸透していたから、ボルシェヴィキの流儀である民主集中制(党中央の独裁制、一部のエリートが指導する体制)がスムーズに受け入れられた。
大井広介が日本共産党の体制を「左翼天皇制」と名付けたのは、名言である。
西ヨーロッパでは、コミンテルンへの加盟をめぐって、各国の社会民主党が分裂した。
例えばヨーロッパ最大の社会民主党であったドイツ社会民主党は、80万人の党員のうち、30万人が分裂して共産党を設立した。
フランス社会党も、18万人のうち13万人が分裂してコミンテルンに参加した。
1921年3月にドイツ共産党は、コミンテルンの指導の下に武装蜂起を図ったが、失敗した。
数百人が殺され、数千人が投獄され、35万人いた党員は2週間で15万人に激減した。
ドイツでの共産革命は失敗となり、世界革命の展望は失われた。
その後にロシアは、一国社会主義へ方針転換した。
コミンテルンも変化していき、ソ連を擁護する国際組織へと変貌した。
1927年にロシア共産党からレフ・トロツキーが除名されると、この変貌はいよいよはっきりした。
戦前の日本共産党は、コミンテルンに驚くほど忠実に従った。
転向者が続出した最大の原因は、その盲従への不満だった。
戦前の日本共産党史は、コミンテルンと切り離せない関係にある。
コミンテルンによって創設され、コミンテルンの支援で活動し、コミンテルンに従い続けることでついに党が崩壊してしまった。
(※ここから日本共産党の創設の話になります)
近藤栄蔵は、1883年の生まれで、19歳でアメリカに渡り、片山潜と知り合ってアメリカで社会主義運動をした。
片山潜は、日本で初めて社会主義の運動をした1人である。
2人に衝撃を与えたのが、1917年に起きた「ロシア革命」と、それに続いて日本で起きた「米騒動」だった。
2人は日本で革命を起こそうと決意し、片山潜はロシアに渡って外から準備工作にあたり、近藤栄蔵は日本に帰って共産党を結成することにした。
1919年に栄蔵は日本に帰国し、潜はアメリカ共産党やメキシコ共産党の設立に力を尽くしてから21年にロシアに向かった。
一方、コミンテルンも1920年に、中国の上海にあるフランス租界に「極東ビューロー」を設立し、ボイチンスキーという工作員を派遣した。
そして21年に、陳独秀や毛沢東らを集めて「中国共産党」が設立された。
コミンテルンは、日本に林某という密使を派遣して、山川均や堺利彦といった社会主義者に接触し、日本共産党の設立を働きかけた。
しかし均や利彦は、慎重だった。
というのも、10年前に幸徳秋水ら12名が死刑になった「大逆事件」があり、それ以来は社会主義の冬の時代だったからだ。
当時の日本では、マルクス主義を知っている人は少なく、ましてやボルシェヴィズムを知っている人は居なかった。
山川均が一番マルクス主義を打ち出しているというので、近藤栄蔵もコミンテルンも均に働きかけた。
近藤栄蔵は、林某のすすめで上海に行き、極東ビューローに日本の情勢を報告した。
そして活動資金として6500円をもらって帰国した。
当時と今では貨幣価値は4千倍ちがうから、今だと2600万円に相当する。
戦前の日本共産党は、だいたいコミンテルンの資金で活動していた。
コミンテルンと連絡がついている時は、年に5~6万円もらっていた。現在の2億円を超える額である。
近藤栄蔵は帰国すると、下関の料亭で芸者遊びをし、金使いの荒さをいぶかった警官に逮捕された。
そして大金の出所を白状してしまった。
釈放されると、山川均らに日本共産党の設立をすすめたが、均らは栄蔵に当局の目が付いているからと拒否した。
仕方なく栄蔵は、個人的に17名の同志を募り、「暁民共産党」を結成した。
しかし暁民共産党は、1921年11月の陸軍大演習の日に、反軍・反戦のビラを軍人宿舎にまいて、一斉検挙された。
暁民共産党が捕まる少し前に、上海から張太雷というコミンテルンの密使が日本に来た。
コミンテルンが開く極東民族大会に、日本代表を派遣してくれと頼むためだった。
極東民族大会は、折から開かれるワシントン会議に対抗する国際会議として企画したものだ。
近藤栄蔵らが声をかけて、7名が日本代表として出席することになったが、そのうち5名はアナキストだった。
アナキストは当時、ボルシェヴィキに親近感を持ち、ロシア革命に共感を寄せていた。
しかしボルシェヴィズムの本質が一党独裁だと明らかになるにつれ、アナキストは離れていった。
上の7名の中に、社会主義者で26歳の徳田球一がいた。
球一は、山川均らの水曜会に属していた。
日本からの代表の他にも、アメリカ共産党・日本人部から片山潜ら6名が参加した。
極東民族大会はモスクワで開かれたが、片山潜はこれを機会にモスクワに定住し、1933年に死ぬまでコミンテルン執行委員を務めた。
コミンテルン側は、極東民族大会を教育の機会と考え、ヨシフ・スターリンが日本代表団の宿舎にやってきて、毎日数時間ずつ共産主義を講義した。
そのためか、日本代表のアナキスト5名は、1名を除いてボルシェヴィズムに転向し、2名はそのまま「クートベ」に入学した。
クートベは、「東洋勤労者共産大学」という共産党の下級幹部を養成する機関である。
なお、上級幹部を養成するのはレーニン大学だった。
クートベは、2年の教育課程で、マルクス主義などの学課や、軍事訓練を受けた。
極東民族大会での日本代表の報告は、全くのでたらめだった。
彼らは、日本共産党がすでに組織されているとか、主要な都市に細胞(支部)を作って非合法活動をしているとか、口から出まかせをした。
この報告をした高瀬清は、後にこう告白している。
「日本にもう共産党が出来たことにしておこうと、徳田球一に相談して、あの発言をした」
それからしばらくして、荒畑寒村が1923年に共産党の設立をコミンテルンに報告するためモスクワに言ったが、上記の出まかせがあったから困った事を、『寒村自伝』に書いている。
「1923年の春に、私がモスクワに行って、片山潜に会い『日本共産党の党員は数百人だ』と話した。
片山は『前年に徳田球一の言葉を信じて、コミンテルンに数千人と報告したから、今さら訂正できない』と、すこぶる当惑の態であった。
徳田らはハッタリを言ったらしい。」
実は、寒村の言う「数百人」もハッタリで、当時の党員は100名前後である。
日本共産党のコミンテルンへの報告は、常にサバ読みがあったようだ。
コミンテルンの指導の誤りは、原因の1つに日本共産党の水増し報告があった。
コミンテルンは、情報収集がお粗末だった。
当時は通信技術が発達していないので、密使の往復に頼っていた。
日本の場合、上海にある極東ビューローとの往復は1週間ですんだ。(当時は上海にはパスポート無しで行けて、連絡船が常時出ていた)
しかしモスクワに行くには、片道に平均して1~2ヵ月かかった。
先の極東民族大会に参加した徳田球一たちの場合、日本を出発したのは1921年10月で、モスクワで大会があったのが22年1~2月、帰国したのは22年5~6月である。
これだけ時間がかかるので、コミンテルンに報告に行き、帰国したら党が検挙されて壊滅している、といった事も起きた。
日本共産党の水増し報告、情報伝達の遅さ、さらにコミンテルンの幹部たちのマルクス・レーニン主義への固執により、コミンテルンからの日本共産党への指導は現実と乖離したものになった。
その辺りを、鍋山貞親はこう語っている。(『思想と人間』から)
質問者
モスクワは日本の事情を十分には理解していなかったでしょう?
鍋山
(モスクワの指示が)おかしいと思っても、こちらが未熟で理解が足りないと受け取った。
質問者
日本共産党に自主性が無い、とは思わなかった?
鍋山
自主性はほとんど問題にならなかった。
コミンテルン絶対主義だな。
二七テーゼ(1927年のテーゼ)が、初めて日本人の参画したテーゼですよ。
それまでは日本人は参画していない。
(コミンテルンが作成した)行動綱領の中の、天皇制の廃止は、「公表するのはいかん」と僕は口走ったんだ。
するとブハーリンが「君はコミュニストだろ、なぜ天皇制廃止にたじろぐんだ」と言うんだ。
僕が「国民感情からして厳しい」と言うと、「もし国民感情を肯定するなら、日本に革命は起こらんではないか」と論破された。
質問者
コミンテルンが天皇制について、きちんと検討をやってくれると良かったと思うのですが。
鍋山
コミンテルンが各国の事情を認め出したのは、1935年の第7回大会からだ。
「人民戦線」を提唱した以後のことだ。
それまでは、各国の事情をいかに打破するかとの考え方だった。
質問者
私ども後輩が不思議なのは、何から何までコミンテルンではなく、日本の独自性は無かったのかと。
鍋山
そういう意識は無かったな。
むしろ独自性は戒める気持ちのほうが強かったと思う。
コミンテルンは、ヨーロッパでも「労農同盟」という戦略を押し付けた。
F・ボルケナウの『世界共産党史』は、こう述べている。
「ボルシェヴィキは、農民との同盟で勝利した(革命を成功させた)。
しかしロシアで可能でも、欧米で可能とは限らない。
すでに1920年にヘルマン・ホルテルは、レーニンに反対して、『欧米では労農同盟は不可能』と述べた。
1923年に労農同盟のために、モスクワにて赤色農民インターナショナルが創設されたが、ヨーロッパで労働者と農民がロシアと類似の関係を示したのは、スペインだけだった。」
イタリア共産党の創立者の1人であるイグナツィオ・シローネは、『神は躓く』で「コミンテルンの歴史は、ロシア人の傲岸な態度の歴史でもあった」と書いている。
話を日本に戻すが、極東民族大会に参加した日本代表団は、徹底的に思想教育されて、資金(5万円といわれる)をもらって帰国してきた。
しかし、その資金は行方不明になってしまった。
代表団が帰国すると、日本共産党の結成のはこびになった。
1922年7月15日のことである。
委員長には堺利彦(51)が選ばれ、他の中央委員は次のメンバーだった。
山川均(41)、荒畑寒村(34)、近藤栄蔵(39)、高津正道(29)、橋浦時雄(30)、徳田球一(27)。
(徳田球一は中央委員でなかったとの説もある)
ここに結集したのは、それまで社会主義の運動をしていた者たちだった。
結党の報告をするため、1922年11月に開かれたコミンテルンの第4回大会に、代表2人が派遣された。
そして日本共産党は、コミンテルンの日本支部と認められた。
コミンテルンは、日本共産党の規約草案と綱領草案を作って渡した。
1923年2月に、日本共産党は第2回・党大会を開き、規約草案を審議した。
参加したのは18名だった。
ここでは綱領草案は審議されず、3月に改めて臨時党大会が開かれた。
この臨時党大会は、後に議事録が特高に押収されたが、それを見ると「細胞数14,細胞員数58」と報告されている。
この細胞は、支部ではなく、社会主義者のグループを適当に区分したものという。
コミンテルンの綱領草案では、日本を「封建制度の残存物が優位を占め、権力は天皇を頂点とする大地主と一部のブルジョアが握っている」としていた。
そして革命の第1段階は、プロレタリアートが農民や権力と繋がらないブルジョアと協力して起こす「ブルジョア革命」とし、その次にプロレタリア独裁を実現する「プロレタリア革命」をするとして、『2段階革命』を説いた。
つまり、ロシア革命で起きた「2月革命(帝政から共和制へ)」から「10月革命(プロレタリア革命)」という2段階が、日本にも当てはまると見ていた。
この分析から、君主制(天皇制)の廃止、普通選挙権、出版・集会の自由、労働組合やデモ・ストの自由化、8時間労働制、天皇や大地主の土地を没収して国有化、などを目標として示した。
この綱領について、臨時党大会では2段階革命説と天皇制廃止が問題視された。
「なぜ最初からプロレタリア革命を目指さないのか」との疑問が出た。
天皇制廃止は、まだ治安維持法は出来てなかったが、天皇制の打倒を口にすれば大逆事件(つまり死刑)を覚悟しなければならなかった。
議長の堺利彦は、天皇制廃止は討議しないつもりで、綱領草案からその部分だけを切り抜いていた。
しかし参加者の1人が「審議すべきだ」と言い、利彦は「討議するなら退席する」と言い出した。
結局、コミンテルンには原案のまま採択したと報告するが、天皇制廃止はスローガンとしては掲げず、党内の文書でも触れないことしした。
上に書いた臨時党大会は1923年3月に行われたが、6月には一斉検挙となってしまった。
その間にやったのは、青年組織の「共産青年同盟」を創ったのと、「レフト」という組織を創ったことくらいである。
当時に早大・商学部の講師だった佐野学は、日本共産党が結成された直後に入党したが、「入ってみたらインテリばかりで、労働者は渡辺政之輔ぐらいであった」と言う。
それではいけないと、学は野坂参三や山本懸蔵などを入党させた。
一斉検挙になったのは、佐野学に責任があった。
党の文書は彼に預けられたが、5月に早大で右翼学生と左翼学生の衝突が起きた。
警察の手入れがありそうというので、学は文書を渋谷という男に預けた。
そして渋谷が警察の家宅捜索にあい、文書が押収された。
戦後になってから資料により、渋谷または周囲の者がスパイだったと明らかになっている。
当時に思想検事だった松阪広政は、1938年の講演でこう述べている。
「検挙の端緒は、スパイから得た資料である。
しかし検挙が事前に向こうに漏れ、佐野学たちは前日に逃げてしまった。
そればかりか書類を全部焼いてしまい、非常に困った。」
徳田球一・志賀義雄の『獄中十八年』は、こう書いている。
「検挙の前々日に、ある筋から分かったので、佐野学、高津正道、近藤栄蔵ら指導者や、山本懸蔵や辻井民之助を急いで亡命させることにした。彼らは中国に行き、そこからソビエトへ亡命した。」
戦前に警視庁・官房主事などをし、「日本共産党対策の第一人者」と言われた大久保留次郎(戦後に自民党議員)は、『思想警察の内幕』でこう書いている。
「日本共産党の内情調査には、どうしてもスパイを必要とした。
党員を懐柔するには、何よりも情けをかける。目を付けた人間には、係の者が親切にして、病気になったら見舞いに行った。
報酬も与えて、妻子の面倒も見てやり、その男が検束されたら子供の学資まで出してやる位の約束はしたものだ。
後になって、中央委員の某までがスパイだったと騒がれたが、これは否定すまい。
それ程にスパイ政策は徹底していたし、『良いスパイを使うこと』が思想警察の合言葉であった。」
戦後になってから、内務省の「特別高等警察の資料」や「特高月報」、司法省の「思想月報」や「思想研究資料」といった内部文書が明るみに出た。
そこには、日本共産党などの活動実態が克明に記されている。
日本共産党の組織構成や活動が手に取るように分かる。
スパイの背後には特高がおり、特高の背後には思想検事がいて、その背後には内務省と司法省がいた。
(2021年10月13~14日に作成)