タイトル日本共産党の解党と再建

(『日本共産党の研究』立花隆著から抜粋)

1923年6月に、警察の手入れがあると前々日に知りながら、5人の幹部を逃亡させただけで、残りはのうのうと検挙された日本共産党(以下では日共と略する)。

実はこの時代は、大正デモクラシーの時代で、まだ社会に自由の雰囲気があった。

この一斉検挙では、日共の逮捕者は100人余りで、起訴者は2人だった。

彼らの入獄中に関東大震災(1923年9月1日)が起き、大杉栄の虐殺や朝鮮人の虐殺、亀戸事件が起きた。

6千人に及ぶ朝鮮人の虐殺は、大震災のパニック下でデマが増殖した結果生まれた。

大震災の直後に、社会主義者たちは次々と検束され、各所で拷問を受けた。

亀戸署に検束された9人は虐殺されたが、これが亀戸事件である。
虐殺された中に、共産青年同盟・委員長の川合義虎もいた。

『人間・水野成夫』は、こう書いている。

「亀戸署の警備に来た騎兵十三連隊の将校1名を含む兵数名に、彼らは虐殺された。それも弁護士によれば、4人は素っ裸にされた上で首を刎ねられていた。」

亀戸事件で殺された1人は、南喜一の弟だった。

喜一は亀戸署に駆けつけたが、彼の伝記にこうある。

「日本刀を手にした巡査部長が、『俺が弟さんのいる留置場に案内する』と言った。

巡査部長は『この奥だ』と指差した。
そこは暗い通路で、南喜一は足をすべらせた。
倒れるのをかばった手に、べっとりと血が付いた。

南が振り返ると、巡査部長の手が日本刀にかかっている。

南は柔道の手で巡査部長の身体を宙に一回転させると、左手に駆け出した。

窓をとび越えて中庭に出ると、菰をかぶせた死体と分かるものが並べてある。

足を止めた時、背後で呼び声がして、続いてピストルが鳴った。

中庭を駆け抜けた南の右足のふくらはぎに、熱いものが当たった。」

南喜一は、亀戸事件に痛憤し、革命運動(日共の活動)に身を投じて、12回の投獄をする闘士になった。

しかし転向して、後に国策パルプの社長となった。

関東大震災の時、日共の者たちは全員が市ヶ谷刑務所に入っていたが、そこに社会主義者の大杉栄を殺したばかりの憲兵隊がやってきて、共産主義者の引き渡しを求めた。
もちろん殺すためである。

監獄当局が応じなかったので事なきを得たが、日共の者たちがこれを知った時の恐怖は想像するにあまりある。

大震災を機に、日共の被告たちはそれまでの黙秘を一変させて、「法廷で宣伝をやろう」との口実で、公判廷での供述を始めた。

それは「自供」であり、彼らの弁護をした布施辰治は「政府官憲に革命運動の内容を知らせて、彼らに立法作業を再検討させた。私は心から遺憾とする。」と言っている。

この時点から、日共の安易な自供の伝統が始まった。

特に幹部級の自供が多く、非転向を貫いた者も自供はたっぷりやっている。

完全な黙秘をしたのは宮本顕治くらいで、これが戦後になって彼が尊敬を集めて指導者になる原因の1つになった。

関東大震災の後、(1924年3月頃に)日共は解党を決議した。

「日本で共産党の結成は時期尚早である」との論理だった。

解党に反対した中央委員は、荒畑寒村だけだった。

徳田球一、野坂参三、市川正一といった、後に日共の指導者になった者たちも、この時は解党に賛成した。

『寒村自伝』にこうある。

「最後の会合で、市川の如きはこれで党員の責任から解放されたと、『ホッホ!』(ドイツ語で万歳の意味)などとはしゃいでいた」

大震災の時、佐野学は上海に亡命中だった。
そこにモスクワにいた荒畑寒村が、震災の報をきいて戻ってきた。

学は、「すぐに日本に帰って革命を起こそう」と主張したという。

震災の混乱が革命のチャンスだと、学は考えたのである。
この辺りに、現実を無視して革命を幻想するインテリ革命家の意識が読み取れる。

とはいえ、当時はマルクスとレーニンの理論が迫真性と説得力のあった時代である。
その理論はロシア革命によって補強されていた。

だから、マルクス・レーニン主義を信じ込む者がいるのも不思議ではなかった。

さて。

日共は解党を決議したが、日共はコミンテルンの日本支部なので、コミンテルンの規約によりコミンテルン中央の許可が必要だった。

そこで解党の報告が、上海経由でモスクワに届けられた。

折からモスクワでは、コミンテルンの第5回大会(1924年7月)が開かれていた。

この大会には、亡命中の佐野学、近藤栄蔵が日本代表として出席したが、そこに日共解党の報せが届いた。

これを受けて、コミンテルン中央は日共の再建を決め、佐野学が再建役を任された。

この直後に、解党を承認してもらおうと、日本から荒畑寒村や北原竜雄や佐野文夫という中央委員が上海に来た。

しかしコミンテルンは、解党を承認しなかった。

北原竜雄は、党再建の費用として1万円をコミンテルンからもらったが、行方を眩ましてしまった。

ちなみに竜雄は、転向して、後には対中国共産党の工作をする日本陸軍系の特務機関として「北原機関」を主宰した。

業を煮やしたコミンテルンは、ついに日共の幹部全員を上海に呼びつけ、コミンテルン極東部長のボイチンスキーから党再建の決定を伝えた。

堺利彦、山川均ら日共の年配者たちはここで脱落し、徳田球一が新しい委員長に決まった。

新たな中央委員のメンバーは、次のとおり。

徳田球一(30)、佐野学(33)、渡辺政之輔(25)、北浦千太郎(24)、荒畑寒村(37)、間庭末吉(27)。

日共は、若い世代で再出発となった。

以後の日共は、指導部が20~30代の青年となる。

戦前の日共を考える時、この若さと、中央委員の少なさは重要である。指導部が未熟だったと言える。

上に書いた党再建ビューローのメンバーは、荒畑寒村を除いては共産主義の運動歴は無きに等しかった。

この経験の浅さが、コミンテルンに頭が上がらず自主性が無かった理由の1つだった。

党再建は決まったが、日本では治安維持法が国会で審議中で、難波大助が死刑判決を受けたところでもあり、日本国内では党再建は自殺行為になるとの見方が圧倒的だった。

(難波大助は、皇太子の裕仁を暗殺しようとし、1924年11月に死刑判決が出た)

1925年1月の上海での会議で、党再建の方針書(1月テーゼ)が決まり、5月の上海での会議で労働運動の方針書(5月テーゼ)が決まった。

この文書を間庭末吉が保管したが、25年の年末に警察に押収されてしまった。

この件は、一般党員には知らされず、後の裁判で徳田球一や佐野学が告白して明るみに出た。

『現代史資料』の編者である山辺健太郎は、「間庭は当局のスパイだった」と言っている。

間庭末吉は、後にスパイだとして日共から除名処分されて、獄中で悶死した。

6名で再出発した日共は、1年後には30名ほどに増えた。

1926年12月の再建党大会の時には、125名になっていた。

注目すべきは、党員は少ないが、それを支える膨大なシンパ層がおり、日共の影響力はかなりあった事である。

戦前の日共のシンパは、現在の党員以上の働きをした者が少なくない。

シンパの中心は、学生と労働者だった。

各大学の学生運動家たちは、「学生連合会」を作っていた。
これが1925年の暮れに出来たばかりの治安維持法に引っ掛かり、「京都学連事件」が起きた。

治安維持法では、共産党員だけでなく、共産主義の宣伝や、党へのカンパも処罰できた。

学生連合会は、マルクス・レーニン主義の学習と実践を目的にうたっていたので、引っ掛かったのである。

治安維持法違反の第1号となった「京都学連事件」の被告38名には、後に日共の中央委員になった野呂栄太郎、岩田義道、逸見重雄、秋笹正之輔がいた。

一方、労働運動では、日共が組織した「レフト」というグループが、左派勢力の1万人以上を指導した。

戦前も戦後も、学生運動と労働運動から日共の指導者たちが育っている。

1925年に、労働運動の中心だった「総同盟」から、左派が分裂して「日本労働組合評議会」(評議会)を結成した。

評議会に参加した労働者は1.3万名ほどだった。

評議会とその後身の「日本労働組合全国協議会」(全協)は、日共の労働運動における分身である。

労働組合では、「プロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル」という国際組織があった。

これは、コミンテルンの労働組合版である。

前述した1925年5月に上海で行われた会議(5月テーゼが決まった会議)では、プロフィンテルン代表のヘラーが出席したが、主な議題は「総同盟から左派が脱退するべきか」だった。

ヘラーは分裂せずに総同盟に留まれと指示したが、その指示を徳田球一らが日本に持ち帰った時には、すでに分裂して評議会が結成されていた。

こうした情報伝達の遅れを無くすため、コミンテルンからカール・ヤンソンが日本に派遣されてきた。

カール・ヤンソンは、開設したばかりのソ連大使館の書記官の身分をもち、プロフィンテルン代表を兼ねていた。

(※日本とソ連は、1925年1月に条約を結び、国交を樹立した)

日ソの国交条約では、共産主義の宣伝禁止の1項があったから、彼の活動は条約違反だった。

彼はロシア革命の前から活動しており、長い活動歴のある人だった。

以後の日共は、何事によらずカール・ヤンソンと協議した。

コミンテルン中央と繋がるカールは、コミンテルン支部である日共に絶対の指導権があった。

カール・ヤンソンへの活動報告と方針協議は、日共の指導部に義務づけられた。
活動費はカール経由でコミンテルンが供給したから、日共は頭が上がらなかった。

1925年9月20日に、日共は『無産者新聞』を創刊した。

これは、合法的な機関紙として計画されたもので、シンパ層に広く読まれた。

主筆には佐野学が就いたが、発禁になる事が多く、部数は伸び悩んだ。

少し後になるが、非合法の機関紙として、『赤旗』が1928年に創刊された。

これは、配布先は党員と党員候補に限られた。

無産政党の運動は、1925年の「普通選挙法の公布」で一挙に盛り上がり、26年には「労働農民党」「社会民衆党」「日本労農党」「日本農民党」の4つの党が誕生していた。

日共は、最も左派の労働農民党に党員を送り込み、支配に成功した。

(2021年10月18~19日に作成)


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