(『毒ガスと日本軍』吉見義明著から抜粋)
第一次世界大戦の前に、日本が加入していた毒ガスの禁止に関する国際条約は、2つあった。
1899年に締結された「ハーグ宣言」と、1900年に締結され07年に改正された「ハーグ陸戦条約」である。
ハーグ宣言は、窒息性ガスだけでなく、有毒ガスも禁止するものだった。
この宣言は、毒ガスを投射物(砲弾や爆弾)に詰めて使用する事しか禁止していなかったので、第一次大戦ではドイツ軍がガスをボンベから放射するという抜け道を用い、これがきっかけとなって全面的な毒ガス戦になってしまった。
ハーグ宣言のもう1つの問題は、「総加入条項」であった。
総加入条項とは、参戦国のうち1国でも条約に加入していない国があれば、条約は適用されないというものである。
ハーグ陸戦条約は、毒ガスに直接の言及はないが、附属書である「陸戦の法規慣例に関する規則」を見ると、毒ガスの使用を禁じている。
なお、この条約にも総加入条項がある。
上記の2つがあったにも関わらず、第一次大戦では全面的な毒ガス戦となってしまった。
その反省から、1919年に締結された「ヴェルサイユ平和条約」では毒ガスの使用が改めて禁じられた。
条文(第171条)では直接的にはドイツ軍の使用を禁じているが、前半部分で毒ガス禁止の国際慣習法を改めて確認する内容となっている。
アメリカはこの条約を批准しなかったが、同様の条文を含む講和条約を単独でドイツと結んだので、この規定に拘束される事になった。
中国も批准しなかったが、同様の内容があるサンジェルマン条約とトリノ条約を批准した。
1921年11月にワシントンで開かれた軍縮会議では、米英仏日伊の5ヵ国が討議したが、毒ガス委員会が設置されて毒ガスも議題となった。
日本代表は毒ガスに反対したが、アメリカ代表のヒューズ国務長官は毒ガス戦の承認を主張し、イギリスがこれに賛成した。
しかし翌22年1月6日の総委員会で、アメリカは突然に毒ガス禁止の決議案を提出した。
これは、アメリカ世論が毒ガス禁止を求めたからであった。
決議案に他の4国は賛成し、全会一致で可決された。
潜水艦の禁止も議論されたが、フランスが強硬に反対したため、潜水艦を商船攻撃に使用するのを禁止する決議案となって成立した。
この2つがまとめられて「潜水艦および毒ガスに関する5国条約」となったが、5ヵ国すべてが批准して初めて発効するものだった。
ところが潜水艦の規定に不満を抱くフランスが批准せず、残念ながら発効しなかった。
1925年5月からジュネーブで、「武器弾薬その他戦用資材の国際取引の取締りに関する国際会議」が開かれた。
この会議では、スイス代表が毒ガスと細菌兵器の禁止を文書で確認しようと提案した。
そこでアメリカ代表は、先の「潜水艦および毒ガスに関する5国条約」を基礎として決議案を作り、6月10日に「毒ガスと細菌兵器の使用を禁じるジュネーブ議定書」が採択され、17日に調印された。
この議定書には総加入条項はなかった。
だが、日本はこの議定書を批准しなかった。
日本が批准するのは、なんと1970年である。
日本陸軍は1925年から毒ガス開発を本格化しており、仮想敵国のアメリカが批准しない限り日本も批准しないという態度であった。
そしてアメリカが批准したのは1975年である。
1930年4月にはイギリスが批准し、日米を除く主要国のほとんどが加入した。
国際連盟では1925年12月に、「一般軍縮会議・準備委員会」が設置された。
この委員会は、1930年11月に軍縮条約案を出したが、そこには毒ガスと細菌兵器を禁じる内容があった。
30年11月にイギリス代表は、「25年のジュネーブ議定書やこの軍縮条約案が禁止するガスの中に、催涙ガスも含まれるのか」と各国に意見を質してきた。
そこで幣原外相は陸海軍に問い合わせたが、その返答は陸海軍ともに「催涙ガスも含まれる」だった。
この返答はすぐ打電された。
日本政府は、この時点で催涙ガスも違法であると、対外的に明確に示したのである。
(2019年10月31日に作成)