タイトル「山川イズム」と「福本イズム」、日本共産党の再建、
1926年12月の再建党大会、27年テーゼ

(『日本共産党の研究』立花隆著から抜粋)

1925~26年に日本の共産主義者たちに流行したイデオロギーは、「山川イズム」と「福本イズム」だった。

「山川イズムは、山川均の説いた理論で、日本共産党(以下では日共と略する)の解党派の理論でもあり、「非合法の日共よりも、合法的な無産政党で運動を進めるべし」との考えだった。

「福本イズム」は、福本和夫の説いた理論で、「職業革命家から成る少数精鋭の日共をつくるべし」と説いた。

この2つのイズムは、現状の認識に違いがあった。

「山川イズム」は、日本の天皇制は封建制の遺物にすぎず、権力は帝国主義のブルジョアが握っているとした
そして、「いま必要な革命は、ブルジョア打倒の社会主義革命である」と説いた。(一段階革命説)

「福本イズム」は、日本は天皇制という専制君主国家だと考えた。
そして、「まず天皇制を打倒する革命をして、その後に社会主義革命に転化するべき」と説いた。(二段階革命説)

山川イズムは、「日本で資本主義は上昇過程にあり、革命のできる情勢はきていない」とした。

福本イズムは、「資本主義は没落過程にあり、革命の情勢がきている」とした。

山川イズムは、「単一な無産党をつくることや、労働運動での統一戦線や、地道な経済闘争」を主張した。

福本イズムは、「厳しい理論闘争をして、不純なマルクス主義者を排除し、労働争議を先鋭化すること」を主張した。

山川イズムは、マルクス・レーニン主義はロシアの特異な条件で成功した理論と見て、「そのまま日本に移植してはならない」とした。

実は、当時に山川均が説いた事は、戦後の1970年代になって日共が説いた事と同じである。

日共は、1964年にソ連派と決別し、67年には中国派とも決別して、ようやく自主路線を確立した。

それまでの日共は、ソ連や中国の提案に従っていた。

日共がソ連や中国に盲従していた時代にも、自主路線を求めた人はたくさん居た。
その嚆矢が山川イズムだった。

日共では長い間、自主路線を求めた人々は、裏切り者、日和見主義、党の破壊者と評されて、党からはじき出された。

山川イズムに立つ人々は、やがて「労農派」として結集し、日共から一括で除名された。

労農派は、戦後になってから「社会党の左派」となった。

現在の日共(宮本顕治の路線)では、かつて「裏切り者の理論」とした理論を、多く用いている。

(※『日本共産党の研究』は1970年代の後半に書かれたものである)

これが、日共が自己の党史をきちんと語れない理由の1つである。

話を福本イズムに移すが、これを唱えた福本和夫は、マルクス、エンゲルス、レーニン、ブハーリンなどの著作を熱心に学び、博学だった。

当時は、彼のようにドイツ語やロシア語を読みこなせる者は少なく、彼の論文に誰も太刀打ちできなかった。

マルクスやレーニンの原典を読む彼に対し、他の理論家たちは勝負にならなかった。

福本イズムが一世を風靡したのは、このためである。

当時は、日本語訳の出版がなされていたのは、マルクスは『資本論』や『経済学批判』といった経済学ものだけで、レーニンの著作は皆無に等しかった。

マルクス・レーニン主義の文献の多くは、日本では発売が禁止されていた。

当時のマルクス経済学の泰斗は河上肇で、彼の著作『資本論略解』は学生の必読だった。

それを福本和夫は批判し、肇は全面的に改編せざるを得なくなった。

若手の理論家で第一人者とされた志賀義雄も、和夫には歯が立たなかった。

こうして福本イズムは、マルクス主義者を魅了し、日共の再建を目指す者たちは福本イズムに染め抜かれた。

山川イズムでは、「大衆に政治運動の伝統も訓練もない日本では、インテリの前衛が大衆の中に入り、革命思想を伝えつつ、大衆の動かし方を学ばないといけない」と説いた。

これに対し福本イズムは、「まず必要なのは理論闘争で、理論を学習せよ」と説いた。

インテリにしてみると、福本イズムのほうが受け入れやすかった。

福本イズムの影響で、日共は各細胞(各支部)にインテリを配属し、マルクス主義の学習を主な活動にした。

実のところ、福本和夫の文章は難解で、投げ出したくなる文章である。

労働者の出身の鍋山貞親は、こう述べている。

「福本イズムは学生やインテリを惹きつけたが、労働者は『よう分からんが良いらしいぞ』という調子だった。労働運動の経験から福本君のやり方はおかしいぞと思っても、それを批判する能力が僕にも無かった。」

当時に女子大生だった寺尾としは、『伝説の時代』でこう書いている。

「東京女子大のグループは、『福本は日本のマルクスです』と語っていた。

このグループは時々、福本の住居を訪ねていて、西村も共に行った。

帰ってきた西村は、不快な顔でこう話した。

福本は本郷の菊富士ホテルで豪勢な生活をしており、皆は畏まって話を聞いたが、私は福本の傲慢な態度がしゃくにさわり、再び行く気になれない。」

菊富士ホテルは、文士や芸術家やインテリのたまり場だった所で、福本和夫がそこに居たのは、すでに日共の中心人物になっていたからだ。

少し話は戻るが、1925年の暮れに、コミンテルンから「代表を派遣せよ」と、コミンテルンの支部である日共に指令がきた。

そこで徳田球一がロシア入りして、現状を報告した。

コミンテルンは、「1年以内に日共を再建しろ。工場に細胞をつくり、労働者をどんどん加入させろ」と指示した。

徳田球一は帰国すると、会議を開いて、27年2月をめどに日共の再建党大会を開くこと、それまでに党員を100名ぐらいに増やすことを決めた。

さらに日共の指導者のうち、第一次共産党事件(1923年6月に起きた党員たちの一斉検挙)の関係者は、自首して入獄すると決めた。

こうして、徳田球一、市川正一、野坂参三、杉浦啓一らは、自首して入獄した。

佐野学や荒畑寒村は、すでに入獄中だった。

日共の中心人物が軒並み入獄したので、党再建の準備は佐野文夫、渡辺政之輔、入党したばかりの福本和夫らが担った。

福本和夫は、1924年の暮れから論文を発表し始めて、福本イズムを広めて、26年の春に日共の依頼で上京し、それから3ヵ月で党中央に入った。

福本和夫が党中央に入ると、福本イズムはいっそう力を増して、26年12月の再建党大会は福本イズム一色となった。

この時に日共は、戦前ではただ1度限りのコミンテルンへの反抗をした。

コミンテルンから派遣されて日本にきていたカール・ヤンソンは、この動きを苦々しい思いで見ていた。

もともと27年2月に開くことになっていた再建党大会が、26年12月に繰り上げて開かれたのには、2つの説がある。

1つは福本派が強行したとの説、もう1つはカール・ヤンソンが命じたとの説である。

私は後者の説を採る。
というのは、党大会の費用はヤンソンが出したからだ。

26年11月下旬に党大会の原案ができたのでヤンソンに持っていくと、ヤンソンは「コミンテルンの方針に反するから根本的に書き改めよ」と迫った。

しかし日共は突っぱねて、福本イズムの方針で党大会を強行した。

この日共の再建党大会は、1926年12月4日に山形県の五色温泉で行われたが、出席者は17名で、佐野文夫と渡辺政之輔を除いては26年に入党した者ばかりだった。

そして新しい中央委員が決まり、次のメンバーが選ばれた。

佐野学(34)、徳田球一(32)、市川正一(34)、佐野文夫(34)、福本和夫(32)、渡辺政之輔(27)、鍋山貞親(25)。

委員長は佐野文夫、政治部長は福本和夫、組織部長は渡辺政之輔が就き、この3人が常任委員会を構成することになった。
(※徳田球一らはまだ獄中である)

そして中央委員だった北浦千太郎を、査問の上で除名することも決まった。

北浦千太郎は、党の機関紙『無産新聞』の主筆だが、福本イズムに強く反対し、この党大会に出席しなかった。

千太郎には不祥事もあり、26年春に警視庁の労働係長である小林警部と赤坂の料亭で会食したため、3ヵ月の停職を受けていた。

ここで、警察(特高)の日共に対する買収工作を、林房雄が『文学的回想』に書いているので、それを抜粋する。

読めば、北浦千太郎の赤坂での会食が疑われた理由が分かるはずだ。

私は学生時代に、特高の買収の目標にされたことがある。

ある時、特高の課長がぜひ会いたいと言ってきて、自動車で銀座裏の料亭に連れて行かれた。

そこには特高課長が待っていて、料理と酒をふるまいつつ彼は切り出した。

「君は想像通りの秀才だ。だが左翼運動だけが国を救う道ではない。憂国の士は官吏にもいる。僕らと協力してくれないか?」

「その気持ちはありません」

「君の学資はどうしている?」

「学資くらい自分で稼げますよ」

特高課長は女の話を持ち出して、「どうだ、もっと面白い場所に連れて行ってやろうか?」と言った。

「酒や女で転ぶ学生が新人会にいると思っているのですか?」

「居ないとも限らない」

そのあと、私は志賀義雄に会って、「警視庁は新人会にもスパイを入れようとしている」と報告した。

半年後に、1人の学生が警視庁から月給をもらっていて、追放された。

話を本筋に戻すが、北浦千太郎は日共から除名されると、雑誌『改造』に反福本イズムの論文を書いた。

この論文は、モスクワのレーニン学校に留学中の高橋貞樹が送ってきた骨子を下敷きにしたという説がある。

北浦千太郎の動きの背後に、カール・ヤンソンが居たのは間違いない。

ヤンソンからすれば、再建党大会をやった連中(福本派)は日共の分派にすぎず、山川派も日共の一員だった。

ヤンソンは、福本派から主導権を取り戻すため、鍋山貞親をモスクワに送った。

鍋山貞親は言う。

「ヤンソンは福本イズムに不満を持っていたが、理論はダメで、福本に反論できなかった。

そこでブハーリンなら福本をやっつけてくれると考え、僕をモスクワに送った。
僕は再建党大会の前の10月末に日本を発った。

報告を聞いたブハーリンは猛烈に怒って、『できるだけ多くの日共の指導者をモスクワに集めろ』と命じた。」

鍋山貞親は、そのままモスクワにプロフィンテルンの日本代表に選ばれて留まった。

一方、福本和夫らは1926年12月4日に再建党大会を終えると、カール・ヤンソンに会って党大会の報告をした上で、「ヤンソンとの交渉を断つ」と通告した。

そして党大会で決議したものをヤンソンに渡し、「コミンテルンに送付してくれ」と依頼した。

それだけ新指導部は、福本イズムに確信を持っていたのである。

当時、徳田球一は「福本は日本のレーニン」と持ち上げていたし、渡辺政之輔も「福本にかかったらブハーリンなど問題ではない」と言っていた。

1927年に入ると、佐野学、徳田球一、市川正一らが次々と出獄してきた。

新指導部は、彼らに再建党大会の報告をしたが、徳田球一は「勝手に党大会を開いて」と猛烈に怒った。

球一はモスクワに行ってその往復に7ヵ月を使い、その後に6ヵ月も入牢していたので、党内の事情をよく知らなかったのだ。

結局、佐野文夫が委員長の座を徳田球一に譲ることで収まった。

そして日共の幹部たちは、コミンテルンから呼ばれたので、大挙してモスクワに行くことにした。

彼らが出発したのは1927年の2~3月で、結局は帰国が12月になるので、1年近くも党中央が日本を留守にする事になった。

一方、モスクワでは日共のコミンテルンへの反抗を重く見ており、ブハーリン・コミンテルン議長が主査となって「日本問題委員会」を特設し、ヨシフ・スターリンも出席して意見を述べていた。

ヨシフ・スターリンは、1924~25年にかけてロシア国内で、左派のジノヴィエフやカーメネフと組んで、トロツキー派と権力闘争をした。

そしてトロツキー派を破ると、今度はジノヴィエフとカーメネフを捨てて、右派のブハーリンやルイコフやトムスキーと結び、左派を追放した。

左派はトロツキー派と結んで対抗したが、27年にロシア共産党から除名された。

福本イズムが出て来た1926年は、スターリンがトロツキーや左派と闘っている最終段階だった。

トロツキーとジノヴィエフは、すでに政治局(党中央)からは追放されていたが、コミンテルンの執行委員には残っていた。

だから、コミンテルンの問題はスターリンやブハーリンにとって重要だったのである。

さらに当時は、中国で国共合作(国民党と共産党の協力関係)が成立し、中国国民党はコミンテルンの準メンバーになっていた。

そして中国国民党は、ソ連から軍官学校の設立や多額のカネなどの援助を受けていた。

それが1927年4月に国民党の蒋介石がクーデターを起こして、中国共産党を弾圧し、国共合作が破綻した。(これを四・一二の反共クーデターという)

これをトロツキーたちは攻撃材料にして、スターリンを厳しく批判した。

このようなソ連内の権力闘争を、モスクワ入りした日共の代表者たちは知らなかった。

福本イズムは、初期のレーニンの理論に忠実だったが、それは当時のスターリンたちの路線からすると極左だった。

スターリンらソ連の指導部は、中国での失敗を日本で取り戻そうと考えた。
それが「27年テーゼ」で、早く日共を大きくして、ジャンジャン活動をやれとの内容だった。

しかし日共が「27年テーゼ」を実行したところ、3ヵ月で日共は壊滅に追い込まれる事になる。

コミンテルンの指導の誤りは、日本の実情を知らなかったからだが、それは日共の行う誇大報告のせいだった。

『人間・水野成夫』には、こうある。

「渡辺政之輔はモスクワに出発する直前に、南喜一に報告書の作成を依頼し、『レフトの数を4万人としてくれ』と条件を出した。

レフトとは赤色分子のことで、党員ではないが入党の可能性がある者をいう。

当時の日共の党員数は130名ほどで、レフトは4~5百名だった。

『そんな嘘は書けない』と南喜一が断ると、渡辺は『コミンテルンは援助金を人数に合わせて出す。400人ではいくらもくれないから活動できない』と説得した。

結局、渡辺は杉浦啓一に書かせた。」

その結果がどうなったかは、岡本功司の著書『ガマ将軍南喜一』に書いてある。

「1927年11月に渡辺政之輔は帰国したが、南喜一にこう言った。

『わしと一緒に表に出て戦ってくれ。一緒に討ち死にしてくれ』

渡辺はコミンテルンの裁断を語り、27年テーゼを説明した。

『4万人もレフトがいるなら、地下から出て表で積極的にやれとコミンテルンは言うんだ。4万人なんて報告したから、こうなってしまった。』

『そいつは無茶だ。いま表に出たら…』
だが渡辺の目に涙がにじんでいるのを見ると、南は彼の手を握りしめた。」

少し話を戻し、日共の代表団がモスクワに着いてからどうしたかを書く。

佐野博はこう述べている。

「福本和夫はドイツ語ができたが、コミンテルンとの討論では日本語とのチャンポンになった。

結局、高橋貞樹がロシア語の通訳になって、やっと会議ができた。

はじめ福本は、いかにも得意気に『日本の革命状況は…』なんて報告した。
だけど各国代表の間ですでに福本イズムに関する討論は終わっていたから、クスクス失笑がもれていた。

福本の報告が終わると、ブハーリンがベラベラとまくし立てて、それで福本はケチョンとなって反論も出来なかった。」

実は、福本和夫と徳田球一よりも1ヵ月早く、渡辺政之輔はモスクワに着いていた。

というのは、日本を出発する直前に、福本和夫は政治事件で警察に捕まり、徳田球一は祇園のお茶屋で遊んでいるうちに暴れだして警察に捕まったからである。

先にモスクワに着いた渡辺政之輔は、福本イズムを擁護して粘り、「正式な討議は福本たちが到着してからにしてくれ」と頼んだ。

そして福本和夫と徳田球一はモスクワに来たが、2人はモスクワの状況を知らず、意気揚々たるものだった。

しかしコミンテルンに出掛けて、反福本イズムで一致していると知ると、コロッと態度が変わった。

特に徳田球一が豹変し、代表団首席の名で一同を集めると、こう言った。

「福本の理論的な誤りは、日本に居る時からはっきり知っていた。
しかし、わざと福本を支持するポーズをとって、福本を騙しすかしながら連れてきた。
福本はモスクワの監獄に叩き込むべきだ。」

日共の代表団は皆が、徳田球一が福本和夫を「日本のレーニン」と持ち上げていたのを知っていた。

だから球一の上記の発言は、むしろ怒りを買った。

渡辺政之輔は思わずカッとなり、球一に殴りかかる場面もあった。

徳田球一の全てを福本和夫に押し付ける無責任発言を機に、攻撃の鉾先は球一に向かい、球一は日共の中央委員長を辞任させられた。

福本和夫も、自分の誤りをあっさりと認めて、中央委員を辞任したが、簡単にコミンテルンに屈服したことに日共代表団の一同は愕然とした。

鍋山貞親は、後の予審調書でこう述べている。

「私どもが期待していたのは、福本が自分の見解を余す所なく解明することでした。

しかるに意外にも、討論に入る玄関口で、彼はすらすらと自分の誤りを認めました。

同志の渡辺政之輔や中尾勝男らが、1~2ヵ月にわたる連日の色々な人との討議によって福本イズムの誤りを認めたのに、福本の態度があっけない事に驚きました。

コミンテルンの理論家たちは、日共の理論的弱点を克服せんと手ぐすね引いて待っていたが、肝心の福本が自分たちの所に来ないうちに屈服したと聞き、あっけにとられたのです。」

コミンテルンの幹部たちは、福本和夫の論文の翻訳を読了して、大論争をやろうと待ち構えていたが、肩透かしを食らった。

渡辺政之輔は、徳田球一と福本和夫の態度に絶望し、ここに日共代表団を解散して、労働者出身の者と代表団をつくり、コミンテルンとの討議にのぞむ事にした。

コミンテルンは、球一と和夫を見放して、佐野文夫も加えて、「一切の役職に就かせないように」と命じた。

佐野文夫は、徳田球一と福田和夫よりもさらに10日ほど遅れてモスクワに呼ばれたが、福本和夫の失脚を聞いて顔面蒼白となり、数カ月のモスクワ滞在中ずっと無言のまま皆に付いていった。
モスクワの威圧に怯えたらしい。

実は、福田和夫の変節も、背景にモスクワの威圧があったらしい。
『思想と人間』にある和夫のインタビューに、こうある。

質問者

福本イズムがいかんというのは、二段階革命論の部分ですか。

福本和夫

基本的には、そこでしょうね。

ブハーリンの考えでは、あれは1912年にロシアの党がやった(レーニンがやった)ことで、コミンテルンが出来た今日では各国の共産党がやる必要はないと。

私は、各国の実情に応じてやらないと本物にならんと考え、日本で理論闘争をした。
ところがコミンテルンが出来て、自主的な党をつくる必要がないと言うんだ。

質問者

なぜあの時、たとえ少数であっても論争しなかったのですか。

福本和夫

あくまで抵抗したら、僕は命を落さなきゃならない。

質問者

そう予感されたんですか。

福本和夫

そう思いました。それで命を落とすのはバカらしい。

福本和夫らが屈服すると、コミンテルンのペースで3ヵ月に及ぶ会議が進み、『日本問題に関するテーゼ(27年テーゼ)』が作成された。

このテーゼは、ブハーリンが自ら書いた。

日共は、1926年12月の再建党大会で決定した方針を全て覆されて、新しい方針を与えられたのである。

さらに日共の新指導部も、コミンテルンの主導で決まった。

新しい指導部は次の通りだった。

中央常任委員は、渡辺政之輔(27)、鍋山貞親(25)、市川正一(35)、佐野学(35)。

中央委員は、杉浦啓一(29)、国領伍一郎(24)、中尾勝男(26)、山本懸蔵(32)、荒畑寒村(39)。

市川正一と佐野学以外は、労働者の出身である。

コミンテルンは、福本イズムを信じるインテリたちを疑っていた。

コミンテルンは、労農派(山川イズム派)の荒畑寒村を、上記の新指導部に勝手に入れた。

だが寒村は、日本に戻ってきた新指導部から中央委員に就くよう要請されると、これを拒絶した。

労農派の人々は、日共と別れたが、共同戦線を唱えたので自らの党は創らなかった。

日共の新指導部が新しい方針を持って帰国すると、日本に残っていた幹部たちは異議なくこれを了承した。

それまで日共は福本イズムで固まっていたのに、モスクワで否定されたと聞くと、全員がすぐに従った。

そして福本和夫の名は、人の口の端にも上らなくなった。

これは、日共にとっていかにモスクワが権威ある存在だったかを示している。
そして、日共の者が権威主義者だった事も示している。

歴史学者の渡部義通は、著書『思想と学問の自伝』にこう書いている。

「日本ではコミンテルンの権威は、日本社会に根ざす家父長的な関係や意識のために絶対化された。

コミンテルンの指示と言うだけで、万事がその通りに決まってしまう。

だから討論を通じて思想なり理念なりが形成される可能性が閉ざされてしまった。

福本イズムも山川イズムも、同時に紙屑同然に廃棄されてしまい、全く別のものが木に竹を接いだ形で持ち込まれた。」

日共の突然の方針転換は、「民主集中制」(党中央の独裁制)という日共の組織原則も原因の1つである。

民主集中制では、下部の組織が自主性をもって行動しようと思えば、ひねり潰される。
実際に、福本イズムはコミンテルンにひねり潰された。

「27年テーゼ」の作られた1927年は、中国で第一次・国共合作が破綻した年だが、コミンテルンとしては日本よりも中国のほうが遥かに関心事だった。

それが、27年テーゼに露骨に出ている。

27年テーゼのスローガンの順序は、こうなっている。

① 帝国主義の戦争の危機に対する闘争

② 支那(中国)の革命から日本は手を引け

③ ソ連を擁護せよ

④ 植民地の絶対的な解放

⑤ 議会の解散

⑥ 君主制(天皇制)の廃止

翌年(1928年)に開かれた第6回コミンテルン大会では、ブハーリン議長の基調報告で「世界のプロレタリアートの3つの本質的な任務は、帝国主義戦争の危険に対する闘争、中国革命の防衛、ソ連の防衛である」とした。

世界のプロレタリアートにとって、自国の革命は本質的な任務ではなくなってしまったのである。

ソ連でスターリンが権力を握ると共に、コミンテルンは変質したといえる。

この第6回大会の後、コミンテルンは1943年の解散までに2回しか大会を開かなかった。
2年に1度開く規約なのにである。

(2021年10月19~20日に作成)


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