間島とは

(『馬賊で見る満洲』澁谷由里著から抜粋)

「覆面浪人」と名乗る作者が書いた『馬賊になるまで』という本がある。
よくある興味本位の馬賊小説とは一線を画する内容と、私は考えている。

富山県立図書館が所蔵するこの本は、実体験や実見聞を元にしたものと確信する。

文中にある木材伐採の利権は、川島浪速が大倉組から軍資金を得る際の担保にしたほどの大きな利権であった。

それに民衆と馬賊の関係を観察したくだりも、諸研究者の見解とほぼ一致する。

『馬賊になるまで』の作者は、作中では「野中壮介」を名乗るが、中国大陸に渡り、満洲で木材伐採の事業を営む大久保某の下で働いた。

(※筆者の澁谷由里は、出てくる地名などから、そこは間島地域と推定している。間島については後述する。)

大久保某は、大陸浪人で日本軍との関係も深く、馬賊と義兄弟の関係を結ぶなど現地で重きを成していた。

大久保とその仲間の馬賊たちは、木材伐採と運搬に大きな利権を持っていて、野中壮介は渾江流域へと向かった。

馬賊たちがしていたのは、伐採して渾江に流す(渾江で運搬する)木材を、強奪する仕事であった。

余談だが、遼河流域の大馬賊だった実在の杜立山は、通行料を取って木材には手出ししないやり方だった。

ある日、野中壮介たちは木材強奪に失敗し、口論から相手の朝鮮人を1人殺してしまう。

これは日本の駐屯軍に詰問されたが、接待して何とかごまかした。

その後、壮介たちは強奪して集めた木材を、まとめて大久保に渡した。

大久保は、今度は渾江の水源地帯(現在の吉林省・濛江県)で、同じ仕事をするよう命じた。

現地の有力な馬賊である馬芝芳の木材伐採地に着いた壮介は、馬芝芳の配下の于大師夫という者の組に随行したが、この組には120~130名が所属していた。

その後、官兵400名と衝突した于大師夫は、官に内通した労働者30名を惨殺した。

野中壮介には日本から徴兵検査の令状が来て、彼はいったん帰国する。

検査に合格したが、入営まで満洲に居たいと考えて再び渡満し、馬賊団に加わって800名以上で通化県・八道江を襲撃した。

壮介は入営通知が来たので、1907年11月に帰国して入営した。

以上が『馬賊になるまで』のあらすじだが、馬賊の生活ぶりがリアルに描かれ、見聞を後世に伝えようとしている。

ただし文中の人数には誇張が感じられる。

『間島』とは、朝鮮と満洲(中国)の国境地帯のことで、両国が互いに一種の聖地もしくは緩衝地帯にして、一般人の居住を禁じた(封禁)エリアを指す。

現在は、中国の吉林省に属する。

19世紀の後半に朝鮮北部で自然災害と大飢饉が発生し、中国(当時は清朝)も列強国の侵略にさらされると、朝鮮人の難民たちが間島に入って定住し始めた。

少し遅れて中国人の難民も北部に定住して集落をつくった。

ロシアが軍港「ウラジオストク」を建設すると、この港から近い間島は、清朝にとって重要な軍事拠点になった。

そのため朝鮮政府に対して、間島に定住した朝鮮人の退去を命じた。

しかし両国の国境確定の交渉は2度行われたが決裂し、暗黙の了解のうちに両国の難民が定住を続けた。

中国で19世紀末に義和団の乱が起き、列強国が鎮圧のため派兵すると、満洲に進出したロシア軍は間島の問題に介入した。

間島は長らく一般人の居住が禁じられていたので、手つかずの自然が残り、木材伐採のできる原生林や、漢方薬になる朝鮮人参、毛皮のとれる野生動物、それに砂金までが採れた。

1902年にロシアは、日英同盟の圧力に屈して満洲からの撤兵に合意したが、朝鮮国王から豆満江・鴨緑江の流域(すなわち間島)での木材伐採権を与えられたのを理由に、満洲の間島地域に駐留し続けた。

これは朝鮮からロシアの影響力を排除したい日本としては脅威で、日露戦争の一因となった。

日露戦争後は、今度は日本が間島に介入したが、日本が朝鮮を保護国化して1910年に併合すると、抗日勢力が間島に移住して抗日戦をするようになった。

後に北朝鮮の独裁者になる金日成は、若い頃は間島で抗日ゲリラをしていた。

1907年に日本政府は、清朝と交渉して、「朝鮮統監府・間島派出所」を設置した。

そして朝鮮人の多い地域には分遣所も設けて、軍も派遣した。

これに清朝側は危機感をおぼえ、日本に対抗して「派弁所」を設けた。

清の呉禄貞は間島を調査して1908年に『延吉辺務報告書』を書き、宋教仁も亡命先の日本で『間島問題』という著作を出した。

間島で大きな勢力をふるったのが、「金匪」と称された韓家である。

韓家は、長白山の一帯で金を採り、巨万の冨を築いて、冨を守るために自警団も持っていた。

韓家の当主で有名なのは、韓現琮、その孫の韓登挙、登挙の叔父の韓受泰の3人である。

韓現琮は、山東省から間島に移住し、砂金の採集に励んで土豪へとのし上がった。

現琮が亡くなると、孫の登挙が後を継いだ。
登挙はロシア軍と結びつき、1902年7月にロシアと採金事業を合弁で行うことにした。

ロシア軍の援助で韓家の自警団は強化され、600名が所属した。

韓家の土地に居住する者は2.5万人に達し、年収は25万元と言われた。

清朝には少額の納税をするのみで、ほとんど独立国の様だった。

日露戦争が起きると、韓家は本拠地をロシア軍に貸して、多くのロシア製の武器を獲得し、さらに勢力を伸ばした。

しかし日本の「東亜義勇軍」が間島に攻め込み、ロシア事務所と採金事業を破壊した。
これ以後、韓家は凋落していく。

1905年ごろに、韓家の当主は韓登挙から韓受泰に代わった。
登挙はロシアと結んで日本軍に攻撃された責任をとって引退したのだろう、

受泰の代になると、家業は縮小し、韓家は史料上から消えてしまう。

(2022年3月11&14日に作成)


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