伊藤博文・元首相の暗殺事件

(『暗殺の近現代史』斎藤充功の記事から抜粋)

1909年(明治42年)の10月26日に、伊藤博文・元首相はハルビン駅で撃たれて死亡した。

(※伊藤博文は、4回も首相になった人で、元勲とか元老と呼ばれて日本の最高権力者の1人であった。

ハルビンは中国領だが、ロシアが進出して鉄道を敷き、租借地にしていた。)

暗殺の犯人として逮捕されたのは、30歳の韓国人、安重根だった。

ハルビンは現在では、中国の黒竜江省ハルビン市になっている。

ハルビンは元々は、帝政ロシアの時代にロシアが鉄道を敷いて、ロシア人が造った北満州の都市である。

ロシア帝国は1896年6月に、清国に強要して『露清の秘密同盟条約(露清密約)』を結んだ。

この条約に基づいてロシアが敷設した東清鉄道の中心駅が、ハルビン駅だった。

ロシア帝国は露清密約の2年後に、『関東州の租借条約(旅順・大連の租借に関する露清条約)』の付属協定で、旅順・大連の25年間の租借権と、ハルビンから旅順まで繋ぐ「南満支線」(東清鉄道)の敷設権を得た。

そしてロシアは、旅順からハルビン経由で、シベリア鉄道に繋がるルートを敷設した。

これは日露戦争中の1904年に開通した。

(※上記のロシアが得た租借権と敷設した鉄道は、日露戦争の結果、日本に譲渡された。
日本はそこに関東州を設置して、ロシアに替わって進出・開発をしていった。)

伊藤博文の暗殺は、博文の乗る特別列車がハルビン駅の一番線ホームに停車し、博文が下車した時に起きた。

狙撃した犯人は、黒色の洋服の上に外套を羽織り、ハンチングを被っていて、「安應七」と名乗っていた。
この男が、安重根であった。

当時のハルビン駅は、ロシアが租借権を持っており、伊藤博文はロシアの蔵相ココツェフと会見するために訪れた。

現場でロシアの儀仗兵に取り押さえられた安重根は、「コレア・ウラー(韓国万歳)」とロシア語で3度叫んだという。

この暗殺は、午前9時30分にプラットホーム(駅の乗降場)で起き、安重根は4~5mの至近距離からブローニング自動拳銃で6発撃った。

事件が起きると、午前中に伊藤博文に同行していた秘書の古谷久綱から、東京の桂太郎・首相に至急電報として、次の報告が行われた。

「伊藤公は朝9時、ハルビン着して停車場にて大蔵大臣(ココツェフ)と共に(迎えに来たロシア)軍隊を検閲の際に、韓国人によりピストルで数発撃たれ、生命は覚束なし」

その日の午後6時には、ハルビンの南246kmにある長春から、「伊藤公の遭難の顛末詳細」という電文が、同じく古谷久綱から桂首相に発信された。

「(伊藤公は)露国の文武官や随員と共に検閲を終わり、午前9時30分に数歩後戻りしたところで、軍楽隊の後方より斬髪洋装の一青年が突然にピストルにて伊藤公を狙撃し、続けて数発を発射した。

伊藤公を扶けて列車内に入れ、小山医師は露国の医師らと手当をしたるも、午前10時に死去された。」

上の電文では、「伊藤博文に銃弾が3発命中したこと」と、「負傷者が3名出たこと」も報告された。

安重根は公判において、こう証言している。

「茶を飲んでいると、(伊藤博文の乗る)列車が着いて、それと同時に音楽隊の演奏が始まった。

自分は、伊藤公が汽車から降りて馬車に乗る時が良いか、汽車から降りた時が良いかと考えていたが、とにかく出てみようと喫茶店を出た。」

喫茶店はホームに隣接してフラット(平坦)な位置にあり、店内からホームの様子が窺えた。

安重根は、伊藤博文を射殺した理由を、「罪状15ヵ条」として挙げた。

①伊藤博文は10年ばかり前に、韓国の王妃を殺害した(閔妃暗殺事件のこと)

②伊藤博文は兵力をもって、5ヵ条の条約を韓国と結んだが、韓国にとって非常に不利なものだ(第二次・日韓協約のこと)

③3年前に締結した12ヵ条の条約も、韓国に不利なものだ(第三次・日韓協約のこと)

④伊藤博文は、韓国皇帝の廃位を図った(ハーグ密使事件に難癖をつけて、高宗を退位に追い込んだ)

⑤韓国軍が解散させられた(第三次・日韓協約には秘密協定があり、韓国軍は解散させられた)

⑥日韓の条約に怒った韓国人は義兵として決起したが、伊藤博文はこれを多数殺した(反日のゲリラを日本軍が鎮圧し、死者は数千人と言われている)

⑦韓国の政治その他の権利を奪った(権利とは、山林・鉱山・鉄道・工業など8つの権利を指す)

⑧韓国の学校の教科書を焼却した(韓国人が編纂した教科書を焼却した)

⑨韓国人の新聞の購読を禁じた(新聞条例と出版法を定めて、韓国語の新聞を発禁にした)

⑩韓国民に知らせずに、第一銀行券(新しい紙幣)を発行した(1905年1月に開業した第一銀行・京城支店が、7月に韓国の中央銀行になった)

⑪国債2300万円を募り、韓国民に知らせずに官吏に勝手に配分したと聞き、土地を奪うためと聞いた(1908年3月に借款契約を結び、担保として農地を取った)

⑫東洋の平和のためと言って、韓国の皇帝を廃したが、ことごとく反対の結果になっている(日韓議定書の前文に謳われた「東洋の平和を確立するため…」の文言を指す)

⑬韓国の保護を名目に、韓国に不利益な施策をしている(韓国で乙巳保護条約と呼ばれる、第二次・日韓協約を指す)

⑭今から42年前に、現在の天皇の父を伊藤博文が殺した(孝明天皇を伊藤博文が暗殺したという説がある。そのことを指す)

⑮韓国民が憤慨しているにも拘わらず、天皇や世界各国に対して「韓国は無事なり」と言っている

(※伊藤博文は1905年の第二次・日韓協約で、韓国に「韓国総監府」が設置されると、初代の総監に就いて韓国支配を進めた人である。

そのため日本政府が進めた、韓国支配の政策を、安重根は伊藤博文の罪状15ヵ条としたのである。)

安重根は、1910年2月9日の第3回公判で、こう陳述した。

「伊藤博文は、(韓国皇帝にだけでなく)日本皇帝(天皇)に対しても逆賊であると聞きました。その事実を申し上げようと思います。」

この発言があったところ、真鍋十蔵・裁判長は突然に審理を打ち切った。

「本件の審理を公開すると、安寧秩序を害する恐れがあるから、公開を停める」と言って、公衆の退廷を言い渡したのである。
法廷は騒然となった。

この公判を傍聴していた『東京朝日新聞』の記者は、次のように書いている。

「安重根が、『日本皇帝(天皇)に対しても大逆賊なり、彼(伊藤博文)は先帝の孝明天皇を』と言い掛かるや、裁判長は公開を禁じて、傍聴人の退廷を命じた」

この記者は「孝明天皇」と安重根が言ったように書いているが、実際には安重根は「現日本皇帝のお父君」と言った。

安重根は、孝明天皇暗殺を「今を去る42年前」と陳述したが、公判のあった1910年の42年前とは1868年になる。

孝明天皇が亡くなったのは1866年の12月だから、安重根が逮捕された1909年10月から見ても1年のズレがある。

安重根が、伊藤博文の暗殺の理由にあえて孝明天皇殺害を入れたのは、何者かの入れ智恵があったと思える。

伊藤博文の暗殺では、「犯人は別人だった説」や「犯人は複数だった説」が囁かれてきた。

その証拠として引用されるのが、貴族院議員で男爵の室田義文の語った、『室田義文翁譚』である。

これは、義文の談話を書生が書き起こしたものだ。

室田義文は、伊藤博文のハルビン訪問に同行して、暗殺現場に居たし、自身も被弾した。

さらには、伊藤博文の遺体の処置にも立ち会っている。

『室田義文翁譚』には、こうある。

「パン!パン!と音がした。
列になった儀仗兵の間から、気がつくと小さな男が、大きなロシア兵の股の間をくぐるような恰好で、ピストルを突き出している。

例の小男は兵隊の手で押さえられたが、伊藤を撃ったのはこの小男ではなかった。

駅の二階の食堂から、斜め下へ向けてフランスの騎馬銃で撃った者がある。
それが真犯人である。

というのは、伊藤の受けた弾丸は、いづれもフランスの騎馬銃の弾丸で、3発あった。

第1弾は肩から入って胸部乳下にとどまり、第2弾は右腕関節を突き抜けて臍の側をぬって臍の下で止まっている。

第3弾は右手臍の側を縫い、腹部の皮をすうっと切って外部へそれてしまっている。

右肩から斜め下(に入る弾道で)に撃つには、二階を除いては不可能である。」

『近代日本世相史』にも、室田義文の証言が残っている。

「伊藤公の傷あとを調べると、弾丸はいずれも右肩から左下へ向かっている。

もし安重根が撃った弾ならば、下から上へ走ってゆかねばならない。

弾道を見ると、どうしてもプラットホームの上の食堂あたりから撃ったと想像される。

しかも弾丸を調べると、全て13連発の騎兵銃のもので、蔵相ココツツオフ伯は後になって『その前夜に騎兵銃を持った韓国人を認めた』と言っている。

しかし当時の日本の官憲は、その事実は日露の国交に影響ありとして、口止めしていた。」

室田義文は、伊藤暗殺事件の後、1909年12月に帰国したが、途中の下関(当時は赤間関)で、赤間関の区裁判所付きの検察官である田村光栄の聴取を受けた。

この時に義文は、こう証言した。

「伊藤公の負傷を自分が実見した所を、見取り図にして差し出します。

傷は、2ヵ所は右腕を貫通し、1ヵ所は衣服を貫通して肺腹部に命中した。

弾道はいずれも上部より下部に向かい、傾斜していた。」

だが、この証言は公表されなかった。

再び『室田義文翁譚』から引用する。

「安重根が犯人でないとすると、真犯人を逮捕するまで事件は片付かぬ。

この事が、日露の国交上に支障をきたすかもしれぬ。

だから山本権兵衛が、その事を明らかにするのに反対した。」

『歴史通』2010年8月号に載った、若狭和朋の「安重根は犯人ではない」という記事には、こうある。

「外務省・外交史料館に、『伊藤公爵満洲視察一件』というファイルは現存している。

このなかに、曾禰荒助・朝鮮総監(韓国総監)が桂太郎・首相に宛てた電報がある。

その核心部分は次の通りだ。

『真の凶行担当者は、逃亡したるものならんか。浦塩(ウラジオ)方面の消息に通じる者の言うところに照らして、凶行の首謀者および実行者の疑いある者を挙げれば、次の数人なるか』

この電報では、首謀者および実行者の疑いある者として、25名を記している。
安重根の名もある。

ウラジオストックには多数の韓国人が居住していて、韓民団という組織はロシアの特務機関の影響下にあった。」

私(斎藤充功)は、ハルビン駅を取材し、駅の助役から「改築前の駅の二階には食堂があった」との証言を得た。

食堂から標的の伊藤博文までの距離は、およそ40mで、スナイパーが仕留めることが出来た距離である。

大野芳の著作『伊藤博文暗殺事件』には、満洲馬賊として名を馳せた小日向白朗の言葉が出てくる。

「わしが中国人から聞いた話では、(伊藤を)騎馬銃で撃った。
ハルビン駅の二階のレストラン、従業員の着替え室からだ。」

安重根が犯人でないなら、真犯人は誰なのか。

ヒントとなるのは、『暗殺・伊藤博文』の著者である上垣外憲一の、次の論考である。

「このころ伊藤の命を狙う理由を最も有していたのは、日本の軍部と右翼ではないだろうか。

韓国の併合に対して、伊藤は韓国の皇帝を廃することは韓国民の反発を招くと考えていた。

伊藤は、名目でも韓国皇帝は残して、日韓は対等という形式を残すべきと考えていた。

韓国併合をしようとした2人の中心人物、桂太郎・首相と小村寿太郎・外相は、韓国総監の伊藤を最大の障害と考えていた。」

桂太郎の後見人は山県有朋で、有朋は韓国に対して強硬派で、伊藤博文と対立していた。

また、日本の右翼団体である「黒龍会」は、日韓併合に賛成する韓国人の政治結社「一進会」と結びついていた。

以下は、斎藤充功と大野芳の対談である。

大野

私は著書『伊藤博文暗殺事件』で、安重根の単独犯行説に異議を唱えました。

抗日の英雄として称えられている安重根は、伊藤博文を殺していない可能性が大いにある。

私はハルビン駅の構造が知りたくて、ペテルブルクの図書館に問い合わせました。
伊藤博文がどこから撃たれたのか知りたかったんです。

調べるきっかけは、石井鱗からの情報でした。

彼は『伊藤博文暗殺事件』ではイニシャルで登場しますが、裏の世界のことを色々と知っていて、韓国の朴正煕・大統領と直通電話で話すことができ、朴正煕を「タカちゃん」(日本名は高木正雄である)と呼ぶ間柄だったそうです。

彼は、「伊藤博文はハルビン駅の二階の、レストランの従業員の更衣室から、フランス製の騎馬銃で撃たれた」と言いました。

この情報のウラを取ろうと思って、石井鱗の後ろ盾だった小日向白朗を訪ねたわけです。

斎藤

小日向白朗といえば、中国に渡って満州馬賊の総頭目に上りつめた男ですね。

大野

そうです。

小日向白朗は、「わしが中国人から聞いた話では、(伊藤を)騎馬銃で撃った。ハルビン駅の二階のレストラン、従業員の着替え室からだ。」と言いました。

斎藤

私もハルビン駅を取材しましたが、安重根が伊藤博文の乗る列車を待っていたという喫茶店は、ホームに隣接するフラットな場所にあった。

現在は駅事務所になってますが、そこから見ると伊藤の撃たれたポイントまでは40~50mで、十分に目視できます。

また駅の二階には食堂があって、その窓から駅の構内が見渡せたという話を聞けました。

そうなると狙撃ポイントは、二階の食堂が適している。

だから伊藤に随行した室田義文の証言が、真実味を帯びてくるわけです。

大野

石井鱗と小日向白朗に話を聞いた後、『近代日本世相史』で室田義文の証言を見つけました。

それで「なんだ、ここに出ているじゃないか」と。

室田などの証言を検討すれば、伊藤博文は水平な位置からではなく、上方から撃たれたと思える。

室田は「弾は上から(伊藤の身体に)入っている」と言ってます。

室田証言だと、撃たれた弾丸は13発ですが、単独犯には無理な数です。

室田は「騎馬銃で撃たれた」と証言してますが、裁判資料や外交資料には騎馬銃の記述はないんです。

室田は裁判所で、田村光栄・検事に「伊藤の受けた弾はいずれもフランスの騎馬銃で、3発であった」と語っています。

ところが騎馬銃を使った真犯人を捜す間に、アメリカが介入する可能性が生じて、桂太郎・首相は山本権兵衛・海相に頼んで室田の口を封じた。

斎藤

だから裁判記録に無いのですか。

大野

そうです。
意図的に銃弾の問題を避けた印象すら受けます。

安重根が発射した弾の1つが、東京の憲政記念館に秘蔵されていて、私は調べたことがあります。

するとベルギー製のブローニング・モデルの弾の可能性が高いと分かった。

斎藤

では安重根は、その銃をどうやって手に入れたのですか。

大野

のちに共犯者として逮捕された韓国人が持っていたブローニング銃と、製造番号が近かったのです。

販売したクンスト社に問い合わせたら、「まとめて購入したものに間違いない」と。

当時の状況を考えれば、ロシア軍が購入したブローニング銃を、退役軍人が横流しして、安重根らに渡ったと考えるのが自然じゃないですか。

斎藤

そうなると、安重根はなぜ自分が犯人だと言い切ったのでしょうか。

大野

真犯人を知っていたからです。

安重根は取り調べで、親友として7~8人の名前を挙げました。
その中に「楊成春」がいます。彼が伊藤博文を撃った真犯人です。

韓国総監府は早い段階で、複数犯による犯行との見立てをしてました。

事件から11日目に、曾禰荒助・韓国総監から桂太郎・首相に出された機密電報には、こうあります。

「真の凶行担当者は、逃亡したるものならんか」

この情報は完全に無視され、安重根にすべての罪を被せて、事件の幕引きを図ったのです。

斎藤

日本政府は、安重根の裁判に露骨に介入しましたね。

小村寿太郎・外相は、司法判断が出る前に、高等法院にこう伝えています。

「政府においては、安重根の犯行は極めて重大なるをもって、懲悪の精神により極刑に処せられることを相当なりと思慮する」

公判は14日という短期間で結審して、審理も6回開かれただけです。
早々に事件の幕引きをした。

大野

裁判には、弁護士や検察官として多くの土佐人が関わり、彼らは安重根を厚遇しました。

その理由は、政治陰謀の臭いを嗅ぎ取ったからで、「この事件の裏には何かある」と感じたからでしょう。

私が面白いと思ったのは、安重根が伊藤殺害の理由として挙げた、15項目の罪状です。

彼は15項目を、4度も証言していますが、まず15項目ありきで、いつも3~4項目が違ったものになっています。

斎藤

15項目の罪状を読んでみて、作文したのは誰だと思いましたか。

大野

作文したのは、間違いなく日本人だと思いました。

「孝明天皇を殺した」との罪状がありますが、韓国人が孝明天皇の暗殺疑惑を知っているわけがないと思いました。

しかし罪状に孝明天皇暗殺を入れた効果は大きく、日本の官憲が驚いて「誰が指図しているんだ」と思わせました。

捕まってから話すことを、安重根が指示されていたのは確かです。

斎藤

安重根に吹き込んだ日本人は、誰ですか。

大野

伊藤博文が死ぬと助かる人間で、後藤新平です。

さらに玄洋社の杉山茂丸も絡んでいます。

杉山茂丸は、明石元二郎と仲が良いし、山県有朋、桂太郎、児玉源太郎とも深く関わっていました。

斎藤

伊藤暗殺の計画は、どの時期に立てられたのでしょうか。

大野

1909年の伊藤博文が韓国総監を辞めた6月前後だと思います。

後藤新平は後になってから、伊藤の秘書官だった小松緑に次の話をしています。

「君に外交秘話をしよう。吾輩は伊藤公と厳島で、3昼夜にわたり国の大計を議論したが、その結果として伊藤公が老軀を提げて満州に行くことになった。

実は伊藤公に会わせるために、ロシア蔵相のココフツオフをハルビンまで呼び寄せたのは、かく言う吾輩だ。」

斎藤

1908年の秋に、伊藤博文と後藤新平は、大倉喜八郎の家で話して、ここで後藤がハルビン行きを強く勧めてますが、暗殺計画は後藤の独断ですか。

大野

違うと思います。

1909年8月ぐらいにココツェフ蔵相から会談の了承を得ますが、この会談は後藤新平と駐露公使・本野一郎がセッティングしました。
後藤と本野は、対露で強硬派です。

(※伊藤博文は親露派の中心人物である)

後藤新平は、(1906年に)初代の満鉄総裁になった時、満鉄をイギリスの東インド会社みたいにしようとしました。

天皇が直轄する会社にして、外交権を持たせようとした。(※東インド会社はイギリス国王に直轄し、外交権があった)

ところが伊藤博文が反対して、満鉄は逓信省の直轄となった。

そこで後藤は満鉄総裁を辞めて、逓信大臣になり、自分の手下の中村是公を満鉄総裁にしました。

斎藤

満鉄の調査部は、後藤のプランを実現させたものでしょう。

大野

後藤新平と杉山茂丸は、政界の陰のトップです。

さらに首相の桂太郎は、先輩の伊藤博文と韓国の経営をめぐって対立していました。

伊藤はロシアと手を結ぼうとしたが、桂は日英同盟を結んで日露戦争を始めた男です。

斎藤

伊藤博文はロシアと手を結ぶ方向の人で、それが彼の排除に大きく影響したと思います。

山県有朋は「朝鮮半島は(大日本帝国の)生命線だ」と話していて、伊藤と外交戦略で対立していたから、伊藤暗殺の黒幕ではないかとの説があります。

山県は黒幕ではないにしても、伊藤暗殺の全体像を知っていたと思います。

後藤が計画を練ったにしても、山県は計画を知っていたと思う。

大野

『日韓合邦秘史』に出てますが、韓国に対して融和策でやろうとする伊藤博文に対し、「日本の天皇に韓国の皇帝を兼ねさせてはどうか」と山県有朋は言ってます。

伊藤は「それは時期尚早」と答えており、考えが違う。

しかし山県は、(古くからの仲間である)伊藤の暗殺までは考えないでしょう。

斎藤

私は、会談の場所にハルビンが選ばれたのに意図を感じます。

通常ならば、ロシアの首都で会談するでしょう。

大野

暗殺計画があれば、国際問題になりやすいロシアの首都は選ぶはずがありません。

ハルビンは、清国から租借したロシアの管轄下にあり、ロシア国籍の韓人が自由に出入りできました。

そこに伊藤とココツェフを誘い出し、韓人が日本人を殺すという暗殺にした。

伊藤のハルビン訪問は、かなり前に情報が漏れていました。

斎藤

後藤新平は、暗殺計画の細部まで把握していたのですか。

大野

把握していないと思います。

後藤は球を投げただけで、球を拾ったのは杉山茂丸です。

会談の情報をもらった杉山は、ウラジオストックの韓人会に伝え、韓人会が刺客を送る構図です。

韓人会で刺客の人選が始まって、かつて韓人会の会長だった楊成春が手を挙げました。

ウラジオストックで楊成春と安重根は、親しく付き合っていました。

暗殺して無事に帰ってきたら、千円を渡すという賞金付きでした。

そして楊成春は帰ってきたが、安重根は捕まった。

斎藤

伊藤を撃ったのは、楊成春ですか。

大野

そうです。彼が駅の二階から撃ちました。

事件後に、安重根の子分たちが楊成春の所に行った。
「分け前をよこせ」と言ったらしいが、楊成春は断った。

それで楊成春は、安重根の子分たちに殺されました。

だから安重根が取り調べで楊成春の名前を出した時、楊はすでに死んでいたのです。

斎藤

安重根は、伊藤を撃っていないのですか。

大野

撃ってますよ。
7連発のブローニング拳銃で、6発を撃ってます。

斎藤

つまり、安重根の撃った弾は致命傷にならずに(伊藤博文に当たらなくて)、楊成春の撃った弾が致命傷になったわけですね。

大野

そうです。

韓国総監府は、犯行は複数によるもので、真犯人は逃げたと見てました。

暗殺の首謀者の後藤新平は、「自分が韓国総監になれば色々とやりやすい」と考えていたと思います。

杉山茂丸は、山県有朋に対して、後藤を韓国総監に推薦する書簡を送っています。

斎藤

しかし結局は、第3代の韓国総監と初代の朝鮮総督には、寺内正毅がなった。

そして日韓併合に進んだわけですね。

(2022年9月5~6日に作成)


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