(『暗殺の近現代史』洋泉社編から抜粋)
1923年(大正12年)の12月27日に、東京の虎ノ門で、皇太子で摂政宮の裕仁が狙撃される事件が起きた。
これを「虎ノ門事件」という。
狙撃犯として逮捕されたのは、24歳の難波大助だった。
銃弾は裕仁の乗る車の窓を突き破り、(誰にも当たらずに)天井に当たった。
難波大助は、レインコートにステッキ銃を忍ばせて、虎ノ門で待ち構えていた。
周辺には、裕仁を見ようと人々が集まっていた。
その日、午前10時40分頃に、警官の乗った先導車が虎ノ門に現われた。
その後ろから、裕仁の乗る車がゆっくりと来た。
難波大助は、警官と憲兵の間をすり抜けて、銃の先端を裕仁の車の窓と10cmの距離にして、引き金をひいた。
発砲に驚いた車は急カーブを切ってスピードを上げ、大助はそれを30mほど走って追った所で、警官に取り押さえられた。
続いて殺到した群衆に、大助は袋叩きにされた。
逮捕された難波大助は、市ヶ谷刑務所に収容された。
半年にわたる予審尋問の後、1924年10月1日に裁判が行われ、たった2日で結審した。
11月13日には死刑の判決となり、執行はその2日後という異例の早さだった。
難波大助の父である難波作之進は、息子の名を戸籍から抹消した。
事件後に、難波家への投石が続いていた。
新聞は犯人の素性を伏せていたが、事件の翌年(1924年)の9月14日に報道統制が解かれて、「犯人は山口県・熊手郡周防村の難波大助で、代議士で防長農工銀行の取締役だった難波作之進の四男である」と発表した。
長州の名家だった難波家は、一転して大逆の家となった。
難波家は明治維新からずっと、長州閥の中核にあり、天皇を補佐する家柄だった。
難波作之進は、大助の処刑日からは一切の食を断ち、1925年5月25日に餓死した。
そして難波家の廃家届けが出され、受理されて家系は消滅した。
代議士だった難波作之進の選挙地盤は、南満州鉄道・総裁の松岡洋右が引き継いだ。
そして松岡洋右の後は、岸信介と佐藤栄作の兄弟が継いだ。
これは今日の安倍晋三にまで繋がっている。
難波大助が犯行に使ったステッキ銃は、難波家が所蔵するもので、空気銃のようなものだったという。
しかし至近距離ならばそれなりの破壊力があり、実際に車の窓を貫通している。
裕仁と対面して座っていた入江為守・東宮侍従長は、窓ガラスの破片で負傷している。
難波大助を取り押さえた巡査は、「皇太子(裕仁)はお立ちになったようでした」と証言している。
岩田礼の著作『天皇暗殺 虎ノ門事件と難波大助』によると、裕仁が狼狽して立ち上がったのを、多くの警官や憲兵が目撃した。
だが宮内省が、(皇太子の権威が失われるとして)緘口令をしいて、報じさせなかった。
裕仁の乗る車を運転していた、宮内省技手の隈元一郎は、発砲を知った助手席の星野・警部から「速力を早めよ」と言われ、時速19kmから32kmに上げた。
その結果、難波大助の追撃を振り切ったのだから、裕仁を守ったといえる。
ところが宮内省は、「命令もなく速度を早め、皇族の威信を傷つけた」として、隈元一郎を懲戒免職にした。
隈元一郎は、3年後に自殺したという。
虎ノ門事件が起きるまでは、「官憲は天皇や皇族に背を向けてはいけない」と宮内省が命じていて、警備は常に天皇や皇族を向いて行われた。
しかし事件を受けて、官憲が背を向けて警備するのが許可され、もっぱら群衆を監視させる方針に変わった。
事件後に、警備の責任が問われて、湯浅倉平・警視総監をはじめ、正力松太郎・警務部長らが懲戒免職になった。
だが宮内省では、隈元・運転手を懲戒免職にしただけで、引責辞任した者はいなかった。
虎ノ門事件が起きると、野党の政友会は「山本権兵衛・内閣を弾劾するのに、これほど良い口実はないぞ」と大騒ぎした。
そして第二次・山本内閣は、すぐに引責辞任へと追い込まれた。
難波大助の犯行動機は、共産主義の革命を起こすことにあった。
これを知った日本の支配層は、大助を「単なる狂人」として処理しようとした。
ところが大助の精神鑑定をした帝国大学の呉秀三は、「精神に欠陥を認めず」と鑑定した。
そこで日本の支配層は次に、難波大助の共産思想を転向させて、天皇と国民に謝罪させるシナリオを考えた。
大助に改心させて、謝罪をさせた上で、天皇の名において「普通なら死刑だが減刑する」と発表し、国民に涙を流させる、というシナリオである。
大助の弁護人は、松谷與二郎(のちに衆院議員)、今村力三郎(のちに専修大学・総長)、岩田宙造(のちに司法大臣)の3人であった。
この3人は、大助を説諭して反省させようとした。
この工作では、横田秀雄・裁判長の指示のほか、宮中からも司法省に示唆があった。
難波大助は、公判で上記のシナリオに沿って陳述すると約束した。
そして最終陳述で、大助は謝罪の言葉を述べた。
「皇太子には気の毒の意を表する。皇室は共産主義の真正面の敵ではない。共産主義者が皇室を敵とするのは、支配階級が無産階級を圧迫する道具に(皇室が)使われた場合に限るのである。」などと述べた。
しかし判決の日、死刑判決が下されて、その後に天皇の慈愛で減刑されるというシナリオを、難波大助は一気に覆した。
突然に立ち上がり、「日本無産者・労働者、日本共産党、万歳!」「ロシア社会主義、ソビエト共和国、万歳!」「共産党インターナショナル、万歳!」と叫んだのだ。
大助は、法廷から連れ出された。
公判記録には記されていないが、傍聴していた楢橋渡・弁護士(のちに運輸大臣)の書いた『人間の反逆』によると、最終陳述の時に難波大助は、裁判長と検事に「3つのことを質問したい」と言って、こう述べた。
「第1に尋ねたいことは、昨日より裁判長も検事も天皇に対して『懼れ多い、懼れ多い』と神様のように言うが、本当にそういう気持ちなのか」
この質問に、裁判長も検事も黙して答えなかった。
「然らば天皇は神様ではないが、国の中心・象徴として尊敬し、一種の有機的な機関として肯定しているのか」
この質問にも、誰も答えなかった。
「然らば天皇に対しては、不敬罪その他の恐るべき刑罰の威力に屈して、その態度をとっているのか」
これにも誰も答えなかった。
そこで大助は、こう絶叫した。
「われは勝てり。
君らが答え得ないところに自己欺瞞がある。
君らは卑怯者だ。
われを絞首刑にせよ!」
難波大助は、裁判長以下を睥睨して最後にこう言った。
「あなた方が社会の繁栄と維持を望むなら、誤った権力の行使を改め、虐げられている人々を解放し、万民が平等の社会の実現に努力せよ。そうしなければ、われは7度生まれ変わっても大逆事件をくり返すであろう。」
難波大助は、途中まで減刑のシナリオに付き合った理由について、「父兄への迫害の緩和のためだった」と弁護人に述べている。
彼は「(自分のした)行為の影響を少なく見積もりすぎた」とも言っているが、その判断ミスは難波家が特別の名家であることが影響していた。
実のところ、難波大助は元勲・伊藤博文の親族で、犯行に使ったステッキ銃も博文の遺品だったのである。
大助の曽祖父である難波覃庵は、明治天皇から「難波のじい」と呼ばれる存在だった。
長州閥という、政界・官界・財界に作られた大派閥の中核にいる難波家を、政府は迫害できないと、大助は踏んでいた。
しかし日本の支配層は、由緒ある難波家をあっさり切り捨てた。
難波家の祖は、高松城の水攻めで自刃した清水宗治の弟・宗忠にさかのぼる。
難波家は江戸時代を通じて、清水家の忠臣となった。
幕末には大助の曽祖父にあたる覃庵が、高杉晋作や桂小五郎と共に活動し、主家の命令で創った私塾を「慕義場」という兵学校に改めた。
この学校で学んだ者に、のちに首相となった寺内正毅がいた。
高杉晋作が決起して、長州藩の保守派を倒すと、覃庵は「第2奇兵隊」を組織して幕府軍を撃退した。
その後に王政復古が成ると、覃庵は新政府入りを求められたが、60歳の老齢を理由に断った。
しかし長州では、旧志士たちが覃庵を訪ねては、(出世した)伊藤博文のことを「あの百姓の小せがれは、芸者屋から政府に出勤しているそうじゃないか」などと話したという。
明治天皇に対しても、「あれは度外れに偉くなったものよのう」というのが、長州の旧士族の天皇観だった。
長州士族にとっては、「明治天皇をあの位に就けてやったのは、オレたちだ」という自負があった。
難波家の親戚には、伊藤博文の他にも、山尾庸三がいた。
桂小五郎(木戸孝允)も、息子の孝正が山尾庸三の娘・寿栄と結婚したので、難波家の親戚である。
孝正と寿栄の息子が、内大臣になった木戸幸一である。
難波大助は、虎ノ門事件の後に、「健亮や義兄が金持ちに売られたのは、誰のせいですか」と、父に宛てた遺書で述べている。
健亮は大助の弟で、義兄とは大助の兄で養子に出されて後に三菱重工業の社長になった吉田義人である。
この2人は、早くに養子に出されていた。
なお、難波大助の一番上の兄である正太郎は、久原鉱業に就職したが、久原鉱業は久原房之助が設立した会社で、後の日産である。
正太郎は、虎ノ門事件を受けて久原鉱業を辞職し、性を黒川に変えたが、後に東満州開発・株式会社の専務になった。
難波大助が「健亮や義兄が金持ちに売られた」と言ったのは、社会の上層に子供を入籍させて血縁をつくる長州閥のシステムを皮肉ったものだ。
大助から見れば、難波家は「金持ちへの人売り」を家業にする、呪われた家だった。
難波大助の弟の健亮は、後になって「虎ノ門事件に関しては、河上肇の書いたものが一番真相に近い」と、取材した牛島秀彦に語った。
マルクス経済学者の河上肇は、最後まで転向しなかった大助を高く評価していた。
つまり健亮は、兄の大助に共感していたのである。
ちなみに河上肇も、長州閥(岩国市の出身)である。
また難波大助の兄・正太郎の妻であるヤスは、市川家の者だが、戦後に日本共産党の書記長を長くつとめた宮本顕治は市川家の親戚である。
宮本顕治も長州閥(光市の出身)で、これが長州閥の左翼の人脈である。
仮に日本で共産主義革命が起きても、ちゃんと長州閥がトップに立つ仕組みが出来ていたといえる。
伊藤博文は、元々は林姓で、父親の林十蔵が伊藤姓の足軽株を買った。
そうして博文は士族の末席に加わり、イギリス資本と繋がることで出世を果たして、首相にもなった。
博文は韓国総監府の初代の総監に就いたとき、親戚の林文太郎を部下にして、ロンドンで入手した護身用のステッキ銃を贈った。
文太郎はそれを、難波作之進に譲ったのである。
この由緒あるステッキ銃を、大助は裕仁を撃つのに使った。
難波大助は17歳の時に、雑誌『武侠世界』に投書したが、その文章では成金の跋扈する世相を批判し、徴兵を忌避する若者の多さに憤慨している。
「汝らは、上に大元帥の天皇陛下をいただく帝国軍隊に入営することを光栄としない不忠者である。汝らは、汝らの崇拝する敵ヤンキーの国に帰化せよ。」と書いている。
17歳の大助は、まだ勤王少年だったと分かるが、当時は大正デモクラシーの時代で、天皇の権威は低下していた。
久木幸男は、当時をこう述べている。
「支配層の内部では、元々から天皇の権威はシンボル的で名目的だったが、『大正天皇の脳病』や大正10年(1921年)の『宮中某重大事件』により、権威は極度に低下した。」
虎ノ門事件の以降、山口県では1つの噂が流れ続けた。
それは、「難波大助が裕仁を狙撃したのは、裕仁に恋人を取られたからだ」との噂だった。
大塚有章の『未完の旅路』には、山口県以外でもこの噂が流れていたとある。
戦前は皇室のゴシップをメディアが報じるのは禁じられていたので、草の根で伝わったものである。
中原静子の『難波大助・虎ノ門事件』でも、同様の噂が書かれている。
静子が調べた限り、噂はどれも事実無根だった。
しかし大助の恋人を、裕仁の妻となった良子とする噂が浸透していた事は、注目に値する。
裕仁・皇太子と良子の婚約は、1918年1月17日に内定し、翌年に正式決定した。
その後に『宮中某重大事件』が起きて、その事は国民には知らされなかったが、国民も何かがあったと感じ取っていた。
『宮中某重大事件』の2年後に、虎ノ門事件は起きている。
難波大助と裕仁夫妻の三角関係が強く噂されたのは、その原形となる別のスキャンダルがあったのではないか。
(2022年9月6日に作成)