(以下は『政党から軍部へ 日本の近代5』中央公論新社刊から抜粋
2003年9月後半にノートにとり勉強)
1918年(大正7年)9月に、原敬(立憲政友会の総裁)の内閣が発足した。
戦前では稀にみる強力な内閣だった。
この内閣は、1919年に『選挙法の改定』を行い、選挙権に必要な直接国税の支払い額を、10円から3円まで引き下げた。
さらに小選挙区制度を導入した。
その後、1920年に衆議院を解散して、総選挙で圧倒的な多数を獲得した。
当時の政界の大きな争点に、普通選挙の導入の可否があった。
憲政会の加藤総裁と第三党の革新クラブ(犬養毅が党首)は可、政友会は否の立場だった。
(※政友会総裁の原敬首相は、普通選挙に反対の立場だった)
もう一つの争点が軍縮で、1921年11月から開催されたワシントン会議で軍縮が決まった。
1921年(大正10年)の11月4日、原敬・首相の暗殺事件が起きた。
原敬は、アメリカの台頭にいち早く気付き、親米路線を採っていた。
当時は、政友会と山県閥が政界を二分していた。
その次に憲政会がいて、464議席中108議席を持っていた。
憲政会の総裁は、加藤高明である。
さらに薩摩派がいて、山本権兵衛、松方正義、牧野伸顕らが中心だが、これは主流にはなれなかった。
長州閥(山県閥)の牙城としては、陸軍、朝鮮総督府、満鉄などがあった。
なお山県有朋は1922年2月に病死した。
山県ら元老たちは、内閣、議会、軍の意見対立がある時に、調整、統合をする役割を果たしていた。
元老と呼ばれたのは、伊藤博文、黒田清隆、山県有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、西園寺公望(さいおんじきんもち)、の8人だ。
首相の選択と任命は、天皇への推薦という形で、元老が担っていた。
大正天皇は病弱で、どうも記憶力が悪かったらしい。
そのために摂政が置かれた。
1921年11月25日に、皇太子・裕仁が摂政に就任した。
当時、大臣ポストは11あり、陸軍大臣と海軍大臣は現役の大将または中将と決まっていた。
また外務大臣は、一党一派に偏ってはならないとの観点から、政党以外からほぼ起用されていた。
鉄道大臣というポストが当時はあり、時代性が出ている。
1923年(大正12年)9月1日に、関東大震災が起きた。
死者・行方不明者14万3千人。
被害総額は55億円と見積もられている。
当時の国富は1023億円(土地を除くと691億円)で、その5.4%に達する額だ。
関東大震災では、混乱に乗ずるかたちで、朝鮮人の大量殺害や、甘粕正彦・大尉による無政府主義者・大杉栄、伊藤野枝の夫妻殺害事件などが起きた。
1923年9月2日(関東大震災の翌日)に、海軍大将の山本権兵衛が首相になった。(※2度目の就任)
山本は普通選挙を政綱に入れていた。
犬養毅が普選を強く望んでいたが、山本は煮え切らない態度だった。
23年12月に虎ノ門事件が起きると、24年1月に山本は内閣総辞職を決めた。
なお山本権兵衛は、第一次政権(1913~14年)の時は、文官任用令を改革して、自由任用の幅を広げた。
植民地の特殊会社(満鉄など)の人事を自由化した。
山県閥と陸軍勢力の力を殺ぐ大胆な改革を進めたが、シーメンス事件で退任となった。
関東大震災の復興は、後藤新平が任にあたり、大規模な計画を立てた。
焦土を全て公債で買い上げ、大規模な都市計画を実行し、完成の後に払い下げるというものである。
これには地主が反対した。土地を取られるし、公債を大量に発行すれば暴落するからだ。
地主階級と政友会は強く結びついていたため、政友会は反対に回った。
原案は30億円の計画だったが、反対のため5億円に縮小した。
後藤新平は、台湾民政長官、満鉄総裁として、植民地経営に手腕を発揮した人である。
鉄道院総裁、逓信大臣の時は、新しい試みを次々に導入した。
1920~23年は東京市長(都知事)として活躍した。
(2025年1月5日に作成)
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