(『毒ガスと日本軍』吉見義明著から抜粋)
1930年10月末に、台湾で日本の過酷な植民地支配に抗議して、先住民タイヤル人が蜂起した。(霧社事件)
この事件は、台湾軍(台湾に駐留する日本軍)によって鎮圧され、投降者も虐殺された。
日本軍の出動人員は1677名で、戦死は22名と、実態はちょっとした戦争だった。
霧社事件での日本軍の毒ガス使用は、春山明哲編『台湾霧社事件・軍事関係資料』の「解説」が優れた研究をしている。
それに学びながら実態に迫ってみよう。
蜂起した台湾住民は、1930年10月30日にはマヘボ渓谷に退却した。
ここは地形が険しくて窪地が多く、住民の殲滅が難しいため、11月2日に毒ガスの使用を求める声が上がった。
水越幸一・台中州知事から石塚英蔵・台湾総督に送られた同日の電報では、「焼き討ちや爆撃などでは地形上、不徹底のおそれがあるので、エーテエテリツトとホスゲン等を以ってする科学的攻撃法も顧慮せられたし」とある。
これは台湾軍・参謀部の陣中日誌にはなく、意図的に削除したのだろう。
なおエーテエテリツトはイペリットの誤記である。
翌3日に、渡辺錠太郎・台湾軍司令官は、宇垣一成・陸軍大臣に対して、「糜爛性の投下弾および山砲弾を使用したい。至急の交付を希望する」と打電した。
糜爛性の毒ガス弾(イペリット、ルイサイト)を要求したのである。
これに対し陸軍省は、「対外的な関係上から詮議せず」と拒否した。
また「ガス弾の事項は、以後は暗号をもってしたい」と伝えた。
陸軍省は、催涙ガスは交付し、それは11月18日の台湾軍の攻撃時に使われた。
陣中日誌には「その効果はなきに非ざるも、蕃人は依然たり」と書かれている。
台湾軍は、独自に毒ガスを製造していた。
台湾の中央研究所が製造したガス弾が、11月8日に飛行機から投下された。
万喜八郎・台湾憲兵隊長の電報によると、その投下は「6発のガス弾の効果試験のため」であった。
台湾軍は独自の判断で、青酸ガス投下弾を使用したのである。
台湾では、1928年7月に新竹演習場でイペリットの熱地試験が行われ、霧社事件の直前の30年7月にも2回目の熱地試験が行われている。
また、霧社事件ではツツガムシ病の試験も行われた。
以上のように、台湾は兵器研究の拠点の1つであった。
(2019年11月12日に作成)