(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
第一次世界大戦の直前にヨーロッパでは、ドイツ・オーストリア・イタリアが「三国同盟」、イギリス・フランス・ロシアが「三国協商」を結んで、対立していた。
1914年6月28日に、オーストリア皇太子夫妻がセルビアの青年に暗殺される「サラエボ事件」が起き、7月28日にオーストリアはセルビアに宣戦布告した。
これにドイツ・ロシア・フランス・イギリスなどが相次いで参戦し、第1次大戦が始まった。
イギリスは8月7日に、日英同盟を結んでいる日本政府に、「極東におけるドイツの軍艦と武装商船を撃沈してほしい」と依頼した。
ドイツは、1898年に中国から租借した山東半島・膠州湾の青島に、大都市を建設し、膠済鉄道を敷き、ドイツ東洋艦隊の根拠地にしていた。
さらにドイツは、マリアナ・カロリン・マーシャル諸島を植民地支配して、艦隊を寄港させていた。
イギリスは、自らが軍港を置いているシンガポールや香港が、ドイツ艦隊に攻撃されるのを恐れていた。
大隈重信・内閣の加藤高明・外相は、中国(満州)に進出する絶好の機会だと考え、ドイツに宣戦布告を行った。
こうして「日独青島戦争」が始まった。
日本軍の5万人が青島要塞の攻略に向かい、ドイツ軍の守備兵が4920人だけだったのもあり、11月7日に青島の占領に成功した。
青島戦争の勝利を見た加藤高明は、軍部および財界の要求をいれて原案を作成した上で、1915年1月18日に「21ヵ条の要求」を中国政府の袁世凱・大総統に渡した。
要求は第1号から第5号まであり、合わせると21ヵ条だった。
要求は主に3つであった。
① ドイツが山東省に持っていた一切の権益を、日本に譲渡すること。
さらに山東半島の北岸から膠済鉄道につながる、新たな鉄道の敷設権を日本に与えること。
② 旅順と大連の租借地および、南満州鉄道と安奉鉄道と吉長鉄道の、管理・経営の期限をさらに99年延長すること。
南満州と東部・内蒙古における、日本人の居住・営業の自由を与えること。
日本に鉱山採掘権を与え、独占的に鉄道敷設権を与え、さらに日本人の顧問や教官を招聘すること。
③ 中国の保護国化・植民地化を狙った、様々な要求。
日本は、すでに韓国に対して「日韓協約」を強制して、植民地化を行っていた。
これと同じ事を、中国に対してもしようとしたのである。
具体的に言うと、政府に日本人顧問を入れる、警察制度の導入、軍の装備を日本式にする、各地に神社を建てて天皇制の国家神道を流布する、日本人居留民のための学校や病院の設立、などである。
①の要求は、加藤高明・外相は「三国干渉への報復」と言った。
これは、日清戦争の直後にあった三国干渉にドイツが参加し、日本が獲得しようとした遼東半島を清国に返還させておきながら、1989年に山東省でドイツ人が殺されたのを口実にして出兵し、膠州湾を租借地とした事への報復という意味である。
②について補足すると、「南満州」とは、日本が日露戦争の結果としてポーツマス条約でロシアから獲得した、長春以南の遼東半島租借地を総称していう。
当時、中国では遼東半島は「関東州」と呼ばれていた。
そこで、この地の権益を守るために駐屯した日本陸軍の守備隊が、「関東軍」となった。
さらに満州事変の後は、満州を武力支配する日本陸軍を「関東軍」と呼ぶようになった。
袁世凱は、21ヵ条の要求を呑めば韓国と同様になってしまうと考え、イギリスやアメリカに内容を洩らして干渉させようとした。
日本政府は、要求を呑ませようと日本軍を増派して、日本軍は南満州に戒厳令をしいて、臨戦態勢をとった。海軍も軍艦を中国沿岸に配置した。
だが日本政府は、英米の圧力で③の要求は撤回した。
日本軍の威圧を受けた袁世凱政府は、③の撤回もあって、1915年5月9日に日本の要求を受諾した。
中国の国民は、これを屈辱とし、5月9日を「国恥記念日」と定め、この日は長く続いていく抗日運動の出発点となった。
日本は、日独青島戦争に勝ったことで、①(ドイツの持っていた権益の獲得)を実現させた。
日本は青島や済南で軍政を行い、日本人の移住を進めた。
青島では、日本領事館の記録によれば、1906年には189人だった日本人が、1922年には2万4112人になっている。
中国政府に②を受諾させた事は、日本が満州と内モンゴルに進出していく契機となった。
満州に居住する日本人は、例えば奉天では、1906年は2250人だったが、1922年には3万911人となり、満州事変の起きた1931年には4万7318人になっている。
満州事変での日本軍の軍事行動を、多くの日本人が熱狂して支持したのは、日本人居留民を救出する行動だと信じた(騙された)からである。
③の要求は、英米の干渉で日本は撤回したが、後の満州国の建国や、汪精衛の南京政府へと繋がっていく。
21ヵ条要求の日本政府の外交文書は、当時の中国の名称である「中華民国」や略称の「中国」を意図的に使用せず、「支那」を使っている。
もともと支那と呼ぶように政府に進言したのは、伊集院彦吉・駐華公使であった。
これを受けて1913年6月に、内閣は閣議決定で、中華民国を「支那」と呼称することにした。
欧米では地理的名称の「China」を使用しているというのが、理由の1つであった。
日本政府が、中華民国という正式な国号を使用しなかったのは、中国で共和制国家が誕生した事実を、日本人に認識させないためであった。
中華「民国」と呼ぶと、「民の国」「共和制国家」のイメージが出来る。
中国では主権者は国民であるのに、日本では国民は「臣民」であった。
中華民国の憲法にあたる『中華民国・臨時約法』では、第1条で「中華民国は人民によって組織される」「主権は国民全体に属す」として、主権在民を明確に規定している。
これに対し日本の『大日本帝国憲法』は、第1条で「大日本帝国は万世一系の天皇が統治する」と定めていた。
日本政府が「支那」「シナ」という侮蔑を込めた呼称を公式文書で使い、学校教育やマスメディアにも流布した結果、日本では中国人への差別意識が増殖していった。
そして日中戦争の時には、日本兵たちが、「チャンコロ1人殺すのは屁でもない」と言い合うまでになったのである。
朝鮮人を「鮮人」「チョン」、中国人を「シナ人」「チャン」と見下す意識は、日本の侵略と植民地支配を助長した。
日本の21ヵ条要求は、中国国民に救国と愛国の意識を生んだ。
そして日貨ボイコット(日本商品の不買運動)と国貨提唱(国産品の生産と愛用)が、全国で拡大した。
中国に進出した日本人居留民は、中国人の日貨ボイコットが発生すると、現地の日本外交当局へ取り締まりを求め、後には派兵による武力鎮圧まで要請した。
やがて、日本が「居留民の保護」を口実に中国へ派兵して戦争になる、というパターンが繰り返される事になる。
(2020年3月22日に作成)
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