タイトルシベリア出兵(シベリア干渉戦争)、尼港事件

(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)

ロシアで1917年3月に、第1次世界大戦に苦しむ民衆が立ち上がって、「2月革命(ロシア暦の呼称)」が起きた。

この革命で、ロマノフ王朝のニコライ2世は退位して、臨時政府が樹立した。

しかし臨時政府が戦争を継続したので、同年11月にレーニンが率いるボルシェビキが武装蜂起して、武力で臨時政府を倒し「ソビエト政権」を樹立した。

レーニンらは、ニコライ2世とその家族を処刑して、ロマノフ王朝を滅亡させた。(これは10月革命と呼ばれる)

ソビエト政府は、1918年3月にドイツ・オーストリア側と単独で講和条約を結び、第1次大戦から離脱した。

(※ロマノフ王朝時代のロシアは、英仏側に立って、第1次大戦に参戦していた)

この離脱により、ドイツは全兵力を西部戦線に投入する事が可能となった。

イギリスとフランスは、ロマノフ王朝と同盟して、ドイツ・オーストリアと戦っていた。

そこでソビエト政府を倒そうとし、連合艦隊を黒海に派遣して、そこからフランス軍はウクライナへ、イギリス軍はザカフカスへ侵攻した。

続けてイギリスとフランスは、ロシアの反革命勢力を援助した。

このためソビエト政府と反革命軍の内戦が激しくなり、3年にわたってロシア人同士の戦争が続けられていく。

日本は、日露戦争の後は、ロシア帝国と4次にわたって「日露協約」を結び、ロシアが北満州、日本が南満州と勢力範囲を取り決めていた。

中華民国に出した「対華21ヵ条の要求」の第2号は、その勢力範囲を中国政府にも承認させようとしたものだった。

ロシア革命が起きて、協力してきたロシア帝国が崩壊するのを見た日本は、北満州などに進出する好機が到来したと考えた。

そして1918年5月に、中国の北京政府と「日中の共同防敵の軍事協定」を結んだ。

この協定は、日本軍は「北部満州・東部蒙古および極東ロシア領の方面からシベリア東部へ出兵する」、中国軍は「中部蒙古、西部蒙古および新疆への出兵をする」と分担した。

共同でシベリアへ出兵する秘密協定だった。

当時の北京政府は、親日派の段祺瑞という軍人が国務院総理(首相)だった。

日本政府は、「西原借款」と呼ばれる総額1億4500万円もの借款援助と、8100万円の武器供与を行った。

これは、段祺瑞政権への買収工作で、現在の数千億円にあたる額である。

だが日本のシベリア出兵に、アメリカが強く反対した。

イギリスとフランスは、アメリカと日本にシベリア出兵を要請し、ソビエト政府を西と東から挟み撃ちしようとした。

だがアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領は、「十分に正当な理由がない」と賛成を渋った。

ところが18年5月にシベリア鉄道の沿線でチェコ・スロバキア軍が反乱を起こすと、ウッドロウはチェコ・スロバキア軍に加担するとして派兵を決めた。

(第1次大戦中に、ドイツ・オーストリア軍として東部戦線に動員されたチェコ人とスロバキア人は、戦う事を嫌い大規模な脱走をしてロシア軍に投降した。

この5万人の軍団は、ソビエト政府の承認を得て、フランスの西部戦線に送られる事になったが、その移動中にシベリア鉄道で反乱を起こしたのである。)

1918年8月に、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、中国、日本から成る連合国軍が、ウラジオストクに上陸した。
シベリア出兵の開始である。

総勢9万人の連合軍のうち、日本は7.2万人を派遣した。

日本軍は、シベリア一帯でロシア革命軍およびパルチザン部隊(労働者や農民で組織された遊撃隊)と戦争した。

ザバイカルで反革命の政権樹立を目指して、コザック出身のセミョーノフが活動を始めると、日本は軍事支援を決めて1師団を出動させた。

そして日本軍は18年9月上旬に、セミョーノフ軍と策応し、9月下旬にはバイカル以東の極東ロシア領をほぼ制圧した。

このシベリア出兵を利用して、日本政府は1919年4月に、南満州の統治機関である関東都督府を、強化した機関にして「関東庁」を発足させた。

さらに「作戦と動員計画に関して陸軍・参謀総長の区処(指揮)を受ける」と規定された、『関東軍』が誕生した。

後になって関東軍が暴走し、満州侵略を拡大させた歴史を考えると、シベリア出兵を利用した関東軍の成立は、満州事変の「前史」である。

その一方で、1919年3月1日にソウルでの集会で始まった、朝鮮の独立運動は、瞬く間に全土に広まり、朝鮮と国境を接する中国の間島地方や、シベリアにも及んだ。

この独立運動は、「朝鮮三・一独立運動」という。

当時のシベリアには、日本の植民地支配を逃れて、多くの朝鮮人が移住していた。

彼らはロシア革命に呼応して、朝鮮の独立運動を展開した。

三・一独立運動は、朝鮮では日本の軍隊と警察によって容赦なく流血の弾圧がされた。

またパリ講和会議において、朝鮮問題は無視された。

第1次世界大戦が、ドイツ・オーストリア・トルコの敗北で終結すると、戦意を失ったチェコ軍団はロシアから撤退していった。

ロシアでの内戦は、革命派が勝利し、反革命派に加担した連合国軍はシベリアから撤退していった。

だが日本軍だけは、シベリアに駐留を続けた。

これに対し批判が浴びせられると、日本政府は「極東ロシア領の政情は不安定なため、その影響を考えると、日本帝国は自衛上から撤兵できない」と言い訳した。

日本軍は兵力を沿海州に集中し、「朝鮮国境や満州にいる過激派の行動を阻止するため、シベリア出兵を継続する」という『シベリア撤兵期に関し政府声明(1920年3月31日)』を日本政府は発表した。

日本政府と軍部が恐れたのは、シベリアでの朝鮮人の独立運動だった。

日本のウラジオストク派遣軍は、1920年4月に朝鮮人のパルチザンに大打撃を与えた。

満州の間島地方は、朝鮮独立運動の拠点の1つとなったが、活発な武装活動をし「間島パルチザン」と呼ばれた。

これを恐れた朝鮮総督府と軍は、謀略を企図した。

1920年10月に、琿春の日本領事館を中国人の馬賊に襲撃させ、それを朝鮮人パルチザンの仕業にして、ウラジオストク派遣軍を中国領土の間島に越境させた。

そして琿春事件の報復と称して、朝鮮人を殺し、村や学校を焼き払った。

(これは間島出兵、または間島事件という)

ロシア沿海州のアムール河の河口に、日本では「尼港」と呼んだ、ニコラエフスクがある。

シベリアに出兵した日本軍は、1918年9月にニコラエフスクを占領し、軍を駐留させた。

1920年1月末にニコラエフスクは、総勢2千のパルチザン部隊(赤軍を称した)に包囲され、288人にすぎなかった日本軍の守備隊(隊長は石川正雄)は和平に応じた。

パルチザンは2月末に市街に進駐したが、その中には中国人と朝鮮人の加わっていた。

3月12日に、設置されていた赤軍本部を、石川正雄らの日本軍守備隊が急襲し、本部は炎に包まれた。

それから数日間も戦闘が続いたが、17日になって在ハバロフスク歩兵第27旅団長の山田少将から勧告があり、18日に日本軍は降伏した。

生き残った日本軍兵士と日本人居留民は収監されたが、すでに居留民のほとんどは日本軍決起の巻き添えをくって戦死していた。

4月になって、尼港守備隊の全滅を知った日本政府は、救援隊の出動を決め、2千人の部隊が小樽から出発した。

アムール河口は氷のため接近できず、部隊は氷の溶けた5月になってから軍事行動を始めた。

日本軍がニコラエフスクに進軍すれば、当然ながら収監されている日本人たちは危険にさらされる。
だがその配慮は無かった。

日本軍を阻止できないと判断したパルチザンのトリャピーチン司令官は、ニコラエフスクから撤退するにあたって、日本人捕虜を殺害することにした。

5月24~25日に、約130人の日本人捕虜の全員が殺され、パルチザンは市街に火を放ち、一般住民から略奪を行った。

この無法行為に対し、ソ連共産党はトリャピーチンの逮捕を決め、彼は反革命罪で処刑された。

このニコラエフスクで起きた一連の事件を、「尼港事件」という。

この事件は、日本では悲報としてセンセーショナルに報道された。
多数の日本人がパルチザンに惨殺されたと報じたのである。

尼港事件が、現地守備隊の背信的な奇襲から起きた事実は伝えず、パルチザンの暴虐さを強調して、ロシアの革命勢力への敵愾心を煽った。

「過激派」という呼び方を、日本の軍部と政府は意図的に用い、ボルシェビキや赤軍やパルチザンへの嫌悪感を表現した。

「アカ」「左翼」というレッテルも同様である。

その結果、社会主義や共産主義を「過激思想」「危険思想」とする社会状況になっていき、「治安維持法の体制」へと繋がっていった。

ロシア革命を世界革命に拡大しようとしたレーニンは、1919年3月に「共産主義インターナショナル(コミンテルン)」を創設した。

その支部として、日本や朝鮮に共産党がつくられた。

コミンテルンは各国の革命運動を支持・支援したから、日本政府と軍部にとっては大きな脅威となった。

中国では1920年7月に、親日の段祺瑞が率いる安徽派と、親米の直隷派との間で、「安直戦争」が起きた。

これで安徽派が敗れた結果、21年1月に日中の軍事協定は廃棄され、日本軍がシベリアに駐留できなくなった。

世界からシベリア駐留が批判されていたのもあり、日本は1922年10月についにシベリアから撤兵した。

4年3ヵ月にわたった日本のシベリア出兵は、日本軍は約3千人の死者を出し、その数倍の負傷者(凍傷も多かった)を出した。

日本のシベリア出兵の戦争で、8万人以上のロシア市民が殺害されたと言われている。

日本政府と軍部は、敗北に終わった不義のシベリア侵略戦争の真相を、国民に隠した。

「シベリア戦争」と呼ばずに、「シベリア出兵」と呼んだのも、その現れである。

ソビエト政府は、内戦の勝利と、連合国軍の干渉戦争に勝利した結果、1922年12月30日に「ソビエト社会主義共和連邦(ソ連)」を成立させた。

1923年2月28日に、日本の陸軍と海軍は、協同で帝国国防方針を改定した。

その要点は次の3つである。

① 日本の想定敵国の順位は、ソ連・米国・支那(中国)と定める。

② ロシア革命後の情勢から、対ロシアの一国戦争が起こる公算はほとんど想定できない。

日本が日清・日露戦争で獲得した満蒙の権益をめぐって、これの回収を望む支那との間に事端が発し、そこから日本対支那&ロシアとの戦争となる可能性が高い。

あるいは日本対支那&米国、さらに日本対支那&ロシア&米国との戦争になることも想定される。

③ 中国大陸の要所に必要な兵力を整備し、作戦に必要な資材も整備する。
これが完了すれば、対2国や対3国の戦争も一応堪えうる。

この国防方針は、すでに満州事変や日米戦争を予想している。

(2020年3月29日に作成)


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