(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
日本人が認識できなかった事に、第一次世界大戦後の世界史の流れがあった。
すでに1900年の義和団戦争で、中国に8ヵ国が連合して出兵して以後は、「義和団体制」とも言われた列強国が中国を分割支配する体制ができていた。
つまり、日本が単独で中国を支配するのを許さない暗黙のルールができていた。
第一次大戦が終わると、アメリカは「ワシントン会議」(1921年11月~22年2月)を開催した。
この会議の結果、日本の「対華21ヵ条の要求」をはじめ、日本が第一次大戦の中で獲得した諸権益が否定された。
日本は「山東懸案に関する条約」を締結させられ、ドイツから奪っていた膠州湾の租借地と山東鉄道を、中国に返還した。
そして日本軍は山東半島から撤退することになり、22年12月に青島守備隊は撤退を完了する。
さらに、太平洋の島々についても、4ヵ国条約がアメリカ・イギリス・フランス・日本の間で締結され、日英同盟は破棄された。
ワシントン会議で締結された『中国に関する9ヵ国条約』は、アメリカ・イギリス・フランス・日本・中国・イタリア・オランダ・ポルトガル・ベルギーが結んだものである。
この条約では、①中国の主権と独立を尊重すること、②中国が国家を建設し維持するのを保障すること、が約定した。
この9ヵ国条約があるため、後に日本が起こした満州事変と日中戦争は国際条約違反となり、中国政府国連に提訴した。
そして日本は国際的な孤立を深め、ついには国連から脱退し、アジア太平洋戦争へと突き進むのである。
日本は、『9ヵ国条約』を理解できなかった。
吉野作造は、日本の植民地政策を批判するなど、当時の日本で最も進歩的な政治学者であった。
作造は4ヵ国条約については「東洋平和のために喜び、日本のために喜ぶ」と高く評価したが、9ヵ国条約への評価も言及もない。
作造でさえこうだから、他は推して知るべしである。
ワシントン会議では、アメリカ・イギリス・日本の主力艦の保有比率を、5・5・3とする「海軍の軍縮条約」も結ばれた。
この比率に、日本の大海軍主義者は強い不満を持った。
やがて、ワシントン会議でつくられた国際協調体制(ワシントン体制)を、日本の急進派は打破しようと動くようになる。
(2020年4月6日に作成)