タイトル国民党軍の北伐と、日本の山東出兵

(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)

中国の孫文は、革命運動の指導者となり、辛亥革命で生まれた「中華民国」の臨時大総統に就いた。

しかし革命政権には軍事力がなかったため、有力な軍人である袁世凱に臨時大総統の地位を譲ることになった。

袁世凱は、1913年10月に正式な大総統に就任し、北京を首都に定めて、「中華民国・北京政府」を発足させた。

日本が「対華21ヵ条の要求」を突きつけると、世凱は官民一体となった反対運動を利用して、帝政の復活を企てた。

世凱は皇帝に即位し、洪憲王朝を名乗った。

しかし主権者として目覚めていた中国国民は、この君主制の復活を許さず、孤立した世凱は即位から半年で病死した。

一方、北京を離れて広東に移住した孫文らは、1917年に「広東軍政府」を樹立して、北京政府に対抗した。

文は19年10月に、広東政府の大総統に選ばれた。

孫文は24年10月に、国民党・第1回全国代表会議をひらき、「ソ連との友好(連ソ)」「中国共産党との合作(容共)」「労働者や農民の支援(扶助農工)」の3大政策を決定した。

これにより、国民党と共産党の「第1次の合作」が成立し、共産党員が政府に参加できるようになった。

孫文は、かつて袁世凱に臨時大総統の地位を譲らざるを得なかったのは、強力な軍隊を持っていなかったからだと考えていた。

その教訓から、ソ連の援助を受けて、24年6月に広東の黄埔に「黄埔軍官学校」を設立した。

この学校は、蒋介石が校長になり、赤軍(ソ連軍)をモデルにして軍幹部を養成した。

ソ連から多数の軍事顧問が派遣され、ソ連から武器・弾薬なども援助してもらった。

孫文は北京政府を倒すための「北伐」を呼びかけたが、25年3月に病死した。

孫文の遺志を継いだ国民党は、汪精衛を首席とする中華民国・国民政府を広東でつくり、1926年7月に蒋介石を総司令官にして北伐を開始した。

軍の北進させて、割拠している軍閥を倒しながら進んでいった。

北伐に対して、各地の労働者・農民・学生が共鳴と支持をしたが、その革命運動の高揚を「国民革命」と呼ぶ。

国民革命は、北京政府の打倒と、列強国への従属からの脱却を謳った。

27年3月に、国民革命軍は南京に入城した。

すると反帝国主義を叫ぶ群衆が、日本・イギリス・アメリカなどの領事館を襲撃し、アメリカとイギリスの軍艦が報復砲撃をして、多くの市民が殺傷された。

(これを南京事件という)

同じ3月に、列強国の権益が集中する上海で、共産党の指導する武装蜂起が起き、北伐軍を迎え入れようとした。

これに対し蒋介石は、4月12日に武装を解除させて、多数の労働者と共産党員を逮捕・処刑した。

これは「蒋介石の四・一二反共クーデター」と言われている。

これをきっかけに、介石は共産党の弾圧に乗り出し、国共合作は崩壊した。

介石は4月18日に、南京で国民政府を立ち上げ、共産党の排撃(清党)を宣言した。

アメリカとイギリスは、反ソを掲げた介石を支持した。

日本の田中義一・内閣は、北伐軍が山東省に迫ると、日本人の居留民の保護を名目に、1927年5月に「第1次の山東出兵」を行った。

関東軍の2千人が大連港を出発して、青島と済南を占領した。

当時、青島には1.3万人、済南には2千人の日本人が居た。

この時は、蒋介石がいったん北伐を中止したので、9月に日本軍は撤兵した。

日本が山東出兵をした真の目的は、北京政府を支配している張作霖を支援する事だった。

張作霖は、日本の援助で満州に勢力を張った軍人で、「奉天派」と呼ばれる軍閥のボスだった。

日本は、作霖の許に軍事顧問を送り込み、作霖を使って権益拡大を目論んでいた。

日本の援助で、作霖は北京政府を掌握するまでになっていた。

1928年4月に蒋介石は、北伐を再開して、5月1日に済南に入城した。

これに対し、田中義一・内閣は「第2次の山東出兵」を行った。

5月2日に日本軍は済南に到着したが、5月3日にアヘンの密売をしていた日本人居留民の10数人が、殺害される事件が起きた。

日本軍は「2~3千人の居留民が虐殺された」とセンセーショナルな誇大報道をし、日本国民を煽った上で、国民革命軍(国民党軍)に総攻撃をかけた。

日本軍は済南城を占領したが、これを「済南事件」と言い、中国では5月3日を国恥記念日とした。

日本政府は、済南事件を口実にして、「国民革命軍を膺懲する」と言って援軍を送る「第3次の山東出兵」を行い、済南の軍事占領を続けた。

中国側は、「これは9ヵ国条約に違反する」と国連に訴え、日本商品のボイコット運動を展開した。

済南を脱出した国民革命軍は、日本軍とは戦わずに北伐を続けて、6月に北京に入城。
北伐を完成させた。

そして全国統一を宣言し、諸外国と結んでいる不平等条約の廃棄を宣言した。

アメリカやヨーロッパ諸国は、次々に中国の(新政府の)関税自主権を承認し、9ヵ国条約の下で国家建設を支援すると表明した。

日本だけが、新政府に敵対する立場を採った。

(2020年4月6~7日に作成)


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