タイトル日本軍の張作霖爆殺と、その隠蔽

(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)

日本が支援してきた張作霖が、蒋介石の国民革命軍に敗北すると、日本は作霖に奉天へ撤退することを勧告した。

作霖は1928年6月3日に、北京を離れて奉天に向かった。

翌4日の午前5時ごろ、作霖の乗る列車は奉天駅の手前1kmの鉄橋にさしかかったが、鉄橋が爆破され、列車は押し潰された。

重傷を負った作霖は、助け出されたが間もなく死去した。

この爆殺を計画したのは、関東軍参謀の河本大作であった。

大作らは、爆殺を国民革命軍の仕業と報じて、そのドサクサで一気に南満州を軍事占領しようとしたのである。

仕掛けていた爆薬のスイッチを押した現場の実行犯は、東宮鉄男・大尉だった。

しかし、張作霖の死は側近たちが1週間にわたって隠し、「張作霖は軽傷」と発表されたので、河本大作らは進軍開始の機会を失い、謀略は失敗に終わった。

この爆殺事件は、日本では「満州某重大事件」と呼ばれた。

日本政府の田中義一・首相は、「事件は関東軍の犯行である」と知り、1928年12月に裕仁(昭和天皇)に「遺憾ながら帝国軍人が関係している。詳細は調査終了しだい陸相より伝えます。」と報告した。

この時の義一は、「河本大作らを軍法会議にかけて、厳格な処分をする」と報告している。

元老の西園寺公望は、「日本の国際的信用のため、事件の真相を公表し、責任者を厳重に処罰するように」と田中義一に要望した。

牧野伸顕・内大臣や鈴木貫太郎・侍従長も、同意見であった。

ところが、陸軍の首脳部は河本大作の厳重処分に、強く反対した。

与党・政友会の多くの閣僚も、これに同調した。

首相の田中義一は、軍人として陸軍大将まで昇りつめた後に、予備役となって政界に入り、政友会の総裁となって首相に就いた。

義一は自らの経歴から、軍部との関係を重んじており、1929年6月に「張作霖爆殺が日本軍の犯行である証拠が見つからないので、河本大作らを行政処分に留めたい」と、裕仁に伝えた。

これは当時27歳の裕仁の逆鱗に触れ、裕仁は「責任をとって首相を辞めろ」と叱責した。

こうして田中義一・内閣は、29年7月1日に「満州某重大事件に、日本人は無関係である。現地の日本軍に守備上の責任を問うが、行政処分にとどめる」と政府発表し、翌日に内閣は総辞職した。

そして民政党の浜口雄幸が、新首相となった。

裕仁に叱責された義一は、政治生命を絶たれたに等しく、野心家の彼はショックを受けて、2ヵ月後に狭心症で死去した。

裕仁は、義一の行いに激怒はしたが、張作霖爆殺の真相の非公表と、犯人たちを厳重処分しないことを、裁可した。

その結果、爆殺事件は1945年の日本敗戦まで公表されず、「満州某重大事件」としてウヤムヤのまま葬られた。

張作霖の爆殺は、中国など日本以外の新聞は、「背後に日本陸軍がいる」と報じていた。

しかし日本国内では、関東軍が検閲を要望した結果、情報統制がなされ、新聞は「中国軍の仕業」と報じた。

現地にいた日本人のジャーナリストは、事件が日本軍の謀略だと気付いていただろう。

それに、事件の当日に民政党の松村謙三らは現場近くにおり、民政党総裁・浜口雄幸にも状況は報告されていた。

野党の民政党は、真相を知ったがそれを国民に知らせず、隠蔽を黙認したのである。

もしも新聞や政治家が真相を国民に知らせていれば、謀略を起こした河本大作らは厳正な処分を受けることになり、関東軍は第2の謀略として柳条湖事件を起こせなかっただろう。

一方で、張作霖の爆殺は、その息子である張学良の対日不信と反日感情を決定的にした。

学良は、作霖の軍閥を受け継いだが、日本側の執拗な説得をはねのけて、1928年12月29日に満州全土の旗を国民政府の青天白日旗に取り替える「易幟(えきし)」を断行した。

学良は国民政府に合流し、これによって国民政府の全国統一が達成された。

張学良は、親日派を粛清して、「東北軍」と称される奉天軍を強化し、近代的な軍隊に仕上げていった。

また、各地に中学校を建て、人材を育成した。

さらに鉄道を敷いて、日本の南満州鉄道(満鉄)に対抗した。

葫蘆(ころ)島に港も建設して、満鉄を利用せずに満州の産物を海外輸出できるようにした。

日本側はこれを「満鉄包囲網の形成」と言って、危機感を募らせた。

張学良の働きによって、満鉄の経営は悪化し、日本では「満蒙は日本の生命線」というスローガンと共に、武力行使を求める声が強まった。

なお、張作霖爆殺の首謀者である河本大作は、爆殺後は1930年に予備役となった。

しかし満州国が建国(1932年3月)されると、満鉄の理事になり、満州炭鉱・株式会社の理事長になった。

1942年には山西産業の社長となった。

爆殺の実行犯だった東宮鉄男は、満州国が建国されると軍政部の顧問になり、満州への武装移民計画(満蒙開拓移民)を推進した。

鉄男は、満蒙開拓・青少年義勇軍も計画した。

日中戦争の途中で1937年11月に戦死した。

(2020年4月7日に作成)

(『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子著から抜粋)

袁世凱が亡くなった後、張作霖は東3省の独立を宣言し、奉天将軍を名乗った。

一方、南京にいる中国・国民党は、蒋介石を総司令官にして北伐を計画し始めた。

日本では田中義一・政権が、北伐の阻止に動いた。

すなわち義一は外相を兼任して、1927年6月27日に森恪・政務次官らと「東方会議」を招集した。

東方会議では、芳沢謙吉・公使、吉田茂・奉天総領事、児玉秀雄・関東庁長官、武藤信義・関東軍司令官らと共に会議を重ねて、「対支政策の綱領」を発表した。

この綱領は、満蒙を中国から分離させる政策を打ち出したもので、「日本帝国の権利や在留邦人が侵害される時は、自衛のため武力行使も辞さない」という主旨だった。

1928年4月に蒋介石は、北伐を開始した。

日本軍は済南でこれを迎え撃った。

北伐軍は済南を避けて通り、張作霖の支配下にある北京に迫った。

もし張作霖が満州に逃げ込み、北伐軍が追撃してくれば、満州における日本の権益が危うくなる。

そこで田中義一・内閣は、28年5月に「戦乱が満州に及ぶ時は、日本は適当な措置をとる」と、蒋介石と張作霖に通告した。

介石はこの通告を、万里の長城の南における権益は認めたと解釈し、「(満州に逃げる)張作霖を追撃しない」と回答した。

そして介石に敗れた作霖は、奉天に引き上げることになった。

日本の関東軍は、これらの事態を見つつ、出兵の勅命を待った。

だが勅命が出ないので、張作霖の爆殺を企み、それを導火線にして一気に全満州を制圧しようと考えた。

かくて1928年6月4日に、奉天に迫った張作霖の乗る列車は爆破された。

作霖は重傷のまま奉天城内の自邸に担ぎ込まれ、4時間後に息を引き取ったとされる。

だが「張作霖の爆殺事件」後も勅命は下らず、満州制圧への謀略は失敗に終わった。

それにしてもこの爆殺は、人々にとって寝耳に水の衝撃であったろう。

衆院議員の町野武馬や陸軍大佐・本庄繁は、張作霖の軍事顧問だった。(武馬は1925~28年、繁は21~24年)

田中義一・首相や白川義則・陸相らは、作霖を擁立して満蒙問題を解決する方針を採っていた。

吉田茂・奉天総領事らは、作霖の排斥論を持っていたが、殺害を考えたのは関東軍のみであろう。

関東軍は、アヘン中毒の中国人3人を買収して、彼らを犯人に仕立てる工作をし、事件現場で2人を殺害した。

陸軍省は事件について、「怪しい支那人が満鉄線の堤に上がろうとしたので、問い質したところ、爆弾を投擲せんとしたので、わが兵は2名を刺殺したが、1名は逃亡した。」と発表している。

その逃亡した1名が、張作霖の長男である張学良の所へ駆けつけて、一部始終を明らかにした。

以後の学良が、抗日の態度を固め、蒋介石と結んだのはよく知られている通りである。

(2020年5月16日に作成)

(『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)

1928年5月に、山本条太郎・満鉄社長と張作霖は、吉林~会寧、長春~大連を結ぶ鉄道の工事契約を成立させた。

(※この契約は後になって、張作霖の後継者となった張学良が承認を拒絶した)

張作霖は、日本に対し怨念を持ち、報復の機会をうかがっていた。

彼は青年層に広まる排日運動を利用したし、秘かにイギリスとアメリカに通じて、日本を牽制した。

これを知った関東軍は、作霖の暗殺を決めた。

28年5月18日に、芳沢謙吉・駐華公使の勧告をいれて、張作霖は東北(満州)に引き揚げることを決めた。

そして6月3日に、北京駅から出発して奉天に向かった。

途中の天津駅で、同行していた日本人顧問の町野武馬・大佐が下車し、代わって呉俊陞(張作霖の側近)が同乗した。

列車が三洞橋を通過する時、轟音と共に爆破されて、三洞橋は吹き飛んだ。

呉俊陞は全身打撲の内出血で死に、張作霖の第五夫人も即死した。

作霖は、両手は粉砕され、両足は吹き飛び、奉天城内の司令部に運ばれたが息絶えた。

張作霖の死後、後継者に誰がなるのかが注目された。

奉天軍(張作霖軍)の長老である汲金純や張海鵬らは、張作相を推した。

これに対し軍の革新派は楊宇霆を推した。

その結果は、張作相が辞退して張学良を推し、学良に決まった。

張学良は、東北保安総司令に就任すると、「東北の時局のみを行い、(領土を)拡大する意図はない」と言明した。

楊宇霆や常陰槐らは、学良を軽視し、亡くなった呉俊陞の後釜を狙った。

しかし学良は、呉俊陞の後任に万福麟を任命し、反乱を企んだ楊宇霆と常陰槐を捕まえて銃殺した。

馬占山は、上司の呉俊陞が死ぬと、黒竜江陸軍・歩兵第三旅長に任命された。

張学良は、国民政府に加わることにして、1928年12月中旬に国民政府は学良を「東北辺防軍・司令官」に任命した。

同時に張作相は「東北辺防軍・駐吉林省・副司令」に任命され、万福麟は「駐黒竜江省・副司令」に任命された。

28年12月29日に学良は、「易幟」を宣言し、東北の全土に青天白日旗を掲げた。

張学良は1930年4月に、アメリカ資本と組んで、満鉄に対抗する鉄道建設の計画を発表した。

すでに満鉄は、アメリカ発の大恐慌の影響で、運賃収入が激減し、経営不振に陥っていた。

(2021年6月2日に作成)


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