教育勅語の危険性を学ぶ①
(2017.4.27~29.)

未だに新資料が出続けて、話題沸騰中の森友学園問題。

この件では、教育勅語を園児に暗唱させている事が大々的に報じられて周知され、問題視された。

ほとんどの国民が、小学校にも上がっていない小さな子供達が、大人のいうままに教育勅語を大声で唱和する姿に危ないものを感じたはずです。

ところが自民党の議員たちには、あの教育を高く評価して、普及させようと考えている者がいる。
その人達は、教育勅語を時代遅れのものとして全く評価しない大多数の国民に危機感をもち、「教育勅語を教材として用いることまでは否定されない」との閣議決定をして、何とか抵抗しようとしています。

教育勅語を使って、国民を「臣民」という下層で逆らわない人々に変身させる(洗脳させる、教育する)事を目指す勢力がいます。

この勢力は、右派とか保守勢力とか日本会議とか呼ばれている。

彼らは天皇を敬う愛国者を装っているが、天皇と仲が悪い。
今回の退位問題でも、天皇の意向を尊重する姿勢が全くない。

そして「古き良き日本を取り戻そう」と言いながら、どんどん外国企業を日本市場に参入させるし、TPPみたいな日本の伝統を崩す協定に賛成する。

私は彼らを観察してきましたが、この人々はエリート意識を持っていて、自分たちに唯々諾々と従う人が増えるのを望んでいる。

国民が大人しく従順になるのを理想状態としているのだが、面白いことにその「国民」に自分は対象者として加えていないのです。

不思議な人々ですよ、「家族を大事にしよう」とか言うのですが、自分の家庭は崩壊していたりする。
「愛国心を持とう」と叫ぶが、自分は汚職して国有資産を食い物にしていたりする。

詰まるところ彼らは、自分に不足しているもの(愛情や愛国心や倫理感)を、他人に持たせて補おうとしているのです。

私はそう見ています。

教育勅語については、「内容には褒めるべき部分が多い」と語る者もいる。
そう言って擁護する。

一方、教育勅語を評価しない者は、「家族を大切にしよう」といった事は別に教育勅語じゃなくても書いているし教えられると説く。

後者のほうが説得力があると思ってますが、私が不満なのは教育勅語の議論で『歴史的にどういう役割を果たし、社会にどのような影響を与えたか』という視点が欠如していることです。

その視点が無いから、議論が上滑りしている感じがある。

『朝鮮近代史』という本を勉強していたら、教育勅語が日本が統治していた時代の韓国でも使われていたと知った。

さらに、当時の韓国で大日本帝国が行った教育を見れば、教育勅語を基盤とする戦前の教育がどんなものかがしっかりと理解できると思った。

そこで今日は『朝鮮近代史』から、日本が朝鮮(韓国)を併合した後に行った教育を述べた部分を抜き出して、紹介しようと思います。

これを読めば、教育勅語の正体が分かるでしょう。

(以下は朝鮮近代史 姜在彦著からの抜粋)

日本は、朝鮮(韓国)を併合(1910年8月)した後、11年8月に寺内正毅・朝鮮総督は第一次教育令を公布した。

そして「教育は、教育勅語の旨趣に基づき、忠良なる国民を育成することを本義とす」(第2条)とし、日本語の普通教育・実業教育・専門教育の3本立てとして、大学教育を禁止した。

すでにあった大学科は廃止され、15年公布の専門学校規則によってそれらは専門学校に格下げされた。

朝鮮総督府は官公立校を拡大し、それを柱として日本国家に忠良な国民をつくる教育を実施した。
他方、私立学校に対しては監督と介入を強化した。

この結果、併合前には2250校に及んだ私立校は、12年には1362校、18年には778校に減った。

1919年2月1日に公布された「改正私立学校規則」により、官立校規則で規定されている以外の教科を禁止し、教科書も総督の認可を経なければ使えなくなった。

16年10月に寺内が総理大臣になり、朝鮮総督は長谷川好道・陸軍大将が継いだ。

長谷川は、朝鮮駐箚軍の司令官として、反日の義兵運動を弾圧した武将である。

併合から10年で、朝鮮人民は言論・出版・集会・結社などの権利を完全に奪われ、服従のみが強制された。

三・一独立運動(1919年2~5月の朝鮮民衆の抗議活動)は、日本の統治者たちに強い衝撃を与えた。

原敬・総理は、朝鮮の混乱を収拾させるために、長谷川総督を更迭した。

そして斎藤実・海軍大将を総督に任命した。

斎藤は19年8月に就任し、途中で1回別の人が替わったが31年6月までその地位にいた。

彼が総督だった10年を「文化政治の時期」という。

(27年12月~29年8月は山梨半造・陸軍大将が総督をした。
 山梨は朝鮮米をめぐる賄賂事件で辞任した。)

斎藤は着任しソウル駅に降りた途端、姜宇奎の爆弾の洗礼をうけた。
姜は逮捕され、20年11月に死刑となった。

1920年代の「文化政治」は、朝鮮と日本との制度的差別を縮小しようとするものであった。

まず総督府は、それまで総督が持っていた兵権を廃止し、「陸海軍を使用する場合は朝鮮軍司令官に請求する」とした。

つぎに憲兵警察制度を廃止して、普通警察制度にした。

また官吏や教員の制服・帯剣を廃止した。

(今の時代からは想像しづらいですが、戦前の日本では学校の教師が剣を帯びて授業に
 出ていた時期がありました。)

さらに若干の朝鮮人を官吏に採用し、諮問機関としていくつかの議会を設けて親日分子を組み入れた。

朝鮮総督府は、青少年の皇民化(日本への同化教育)にとりわけ神経を集中させた。

20年11月に教育令の改正、22年2月に新教育令を出して、学制改正を行った。

これにより、それまで朝鮮人は日本の大学や高校に進むのが阻止されていたが、可能となった。

小中学校では、日本語(国語)が重視された。

例えば普通学校(小学校)では、1年生の場合、週に日本語は10時間で、朝鮮語は4時間だった。

初等教育の普及が進められたが、1936年の時点でも就学率は25%にとどまった。

新教育令では大学の設置も認められ、朝鮮人の有志は大学をつくろうとしたが、23~25年の大水害などで実現しなかった。

一方、総督府は京城帝国大学をつくることにし、24年から大学予科生を募集した。

この大学は朝鮮にありながら、日本人本位の大学だった。

例えば予科生の構成は、24年は日本人124名で朝鮮人44名、25年は日本人228名で朝鮮人91名、26年は日本人235名で朝鮮人103名となっている。

「文化政治」では、言論・出版・集会・結社の自由が、きびしい制約の下であったが実現した。

1920年1月には、『東亜日報』『朝鮮日報』『時事新報』の3つの新聞の創刊が許可された。

その他にも多様な雑誌が出現した。
1920年代は、文芸運動が一気に花咲いた時期である。

だが言論活動は厳しい弾圧も受けた。

例えば『東亜日報』は、40年8月10日に廃刊を強制されるまでに、無期の停刊4回、販売禁止63回、押収489回、削除2433回となっている。

1925年4月に日本で治安維持法が公布されると、勅令でそのまま朝鮮にも適用された。

しかも、日本では社会主義運動が弾圧の対象であったが、朝鮮ではあらゆる独立運動が「国体を変革するもの」とされ対象となった。

三・一運動で勝ち取った自由は、束の間でおわり、治安維持法の実施後はあらゆる運動が地下や海外に移った。

1936年8月に、南次郎・陸軍大将が朝鮮総督に就いた。

南はそれまで、満州の関東軍司令官などを歴任していた。

彼は42年5月まで総督だったが、この時期の朝鮮政治は人々の皇国皇民化に最大の重点が置かれ、「内鮮一体」(日本と朝鮮の一体化)のスローガンが掲げられた。

「内鮮一体」は、けっして朝鮮人への差別を撤廃することではなかった。

これは結局のところ、朝鮮人を臣民化して、天皇との君臣関係を固めることである。

そのために、色々と神がかり的な行事が強制された。

天照大神と明治天皇をまつる朝鮮神宮(ソウルで1925年に竣工)の他にも、百済の故地に扶余神宮が建設された。

そして各地に神社と神祠がつくられ、参拝が義務づけられた。

また、「皇国臣民の誓詞」を制定し、各学校や集会で唱えるよう強制された。

38年3月には教育令が改定されて、それまでは正課だった朝鮮語は随意科目となり、実質的には廃止された。

40年8月には、朝鮮語の大手新聞である『東亜日報』と『朝鮮日報』が廃刊となり、朝鮮語の言論機関は一掃された。

39年11月には、『創氏改名』が公布され、「姓」が中心の朝鮮社会を「氏」が中心の日本的な家族制度に変えようとした。

儒教色の強い朝鮮では、姓を変えることは「換父易祖」といって不孝の最たるものと考えられていたから、祖先を裏切ることになる。

一連の施策は、朝鮮民族の歴史を抹殺することに他ならない。

従来は、日韓併合後も学校では断続的ながら朝鮮史が学ばれていた。

ところが1934年4月から史学の専門家が調査をして、同年12月に山田三良・総長は宇垣総督に「歴史教科書の調査委員会の設置の建議書」を提出した。

その建議書には、こうある。

「中学校の教員には、韓国を併合したことの説明に困難を感ずると訴える者が少なからず
 いる。
 これは教科書の欠陥が原因である。

 元来、韓国併合を説明するに当たっては、まず朝鮮が古来から独立国だった事実はなく、
 元や明や清に(中国に)常に服属していた事をつまびらかに説明する必要がある。

 日清戦争後は、我が国の指導に依って独立国となったが、その後15年の間とうてい
 独立国でやっていけない事を暴露した。

 早晩どこかの国の支配下になるのは避けがたい運命だったが、当時の(朝鮮)皇帝は
 日本に併合されるのを自発的に同意した。

 日本帝国は東洋の平和のために韓国を併合するに至ったのであり、世界の大勢上
 やむを得ない結果だったと説明しなければならない。」

要するに、「朝鮮は古来から独立国ではなく中国に服属してきたと強調して、日本による併合の正当性を教えよ」という事である。

皇民化政策(皇民化教育)の目指すところは、『朝鮮人を労働力および兵力として戦争に動員すること』であった。

1938年4月からは陸軍志願兵制度が実施され、44年5月からは徴兵制に発展した。

39年からは国民徴用令によって強制連行が始まり、44年からは女子挺身隊勤務令(その中には従軍慰安婦も含まれていた)が施行された。

朝鮮語を抹殺する政策の中で、学術団体の朝鮮語学会は「独立運動をしている」として42年10月にメンバー33人が検挙された。

いわゆる「朝鮮語学会事件」である。
2名が拷問で殺され、8名が有罪判決となった。

日中戦争が始まると、朝鮮では毎月1日を「愛国日」として、各学校に神社参拝が強制された。

それを拒否したため、多くのミッション・スクールが廃校となった。

38年からはキリスト教徒にも神社参拝が強制され、拒否した者は検挙となった。

日本の敗戦までに、信者は2千名以上が投獄され、閉鎖された教会は二百に達した。

43年10月には学徒志願兵の制度が実施され、学徒出陣が強制された。

軍に入隊しない者は、「鉱山や工場に徴用する」と脅された。

学徒出陣した人からは、軍から脱出する者が続出した。

太平洋戦争末期の朝鮮学生たちについて、朝鮮総督府は44年8月に帝国議会(日本の国会)へこう説明している。

「依然として、米英の経済力の強大なのを過大に評価して、大日本帝国が敗れて朝鮮が
 独立するのを夢想する者がいる。

 日ソの開戦の時こそ民族解放の絶好の機会だと思う者も少なくない。

 青少年に特有の感激性と相まって、折にふれて不穏な言動となり、ついには秘密結社を
 組織して活動する者も少なくない。」

こうした状況の中で、一方では日本に積極的に協力する「親日派」もいた。

朝鮮では「親日派」とは、支配する日本に協力した裏切り者をいう。

この人々は、日本を盟主とする「大東亜共栄圏」の中での地位向上を夢見て、徴兵制の実施を支持して、兵役義務に見合う日本国会への参政権を狙っていた。

実際に45年2月には、徴兵制への代価として、日本帝国議会への親日派の参政権が認められた。

そして45年4月3日に、貴族院に7人の朝鮮人が勅選された。

朝鮮を戦争に動員するための御用団体は、38年7月に結成された『国民精神総動員・朝鮮連盟』で、40年10月には『国民総力・朝鮮連盟』に改組された。

『国民総力・朝鮮連盟』の総裁は、南次郎・朝鮮総督だった。

こうした時代背景の中で、朝鮮では日本語による文学が叫ばれた。

39年10月には総督府の采配の下で、朝鮮文人協会が結成された。

これは43年4月には朝鮮俳句作家協会などと統合されて、朝鮮文人報国会となった。


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