前回の日記で、私の母方の祖母である村本慶子の身体が弱り、その介護をしていると書きました。
彼女は11月6日に東海大学付属病院(神奈川県伊勢原市)に入院し、担当の医者からは「年内の命だと思います」と言われました。
普通だと祖母が入院したら、しょっちゅう見舞いに行き、様子を見るのですが、現在はコロナウイルスを病院側が警戒するあまり、入院患者への面会が基本的に許されません。
すでに国の出した緊急事態宣言は解除されていますが、医者である弟の話では、病院ごとに対応を決めているそうです。
面会を一切禁止する病院も多く、東海大学付属病院もその状態でした。
なので、97歳で介護が必要な祖母が入院したのに、私たち家族の面会が出来ませんでした。
慶子の体調や病状は、担当の看護士を経由してしか情報を得られませんでした。
私たち家族は、慶子の着替えを持っていくため、しっちゅう病院に通ってましたが、看護士にそれを渡して、慶子の様子を短い時間で聞くことしか出来ませんでした。
以上の事から、慶子の病状がどのように変化していったかは、はっきり分かりません。
医者の説明では、「すい臓に癌ができていて、それが体調悪化の主因であり、年齢の事を考えると手術は無理。もう長くないし、年内に死ぬと思います」との事でした。
そんな状態なのに、会って元気づけたり、彼女の最後の遺言的な言葉を聞いたりは、全く出来ませんでした。
正直なところ、めちゃくちゃ腹が立ちました。
「日本の医療はいったいどうなってるんだ?
患者やその家族の気持ちを全く考えていない。
家族とも面会できないなんて、まるで刑務所じゃないか。
いや、刑務所でも面会できるから、刑務所以下か。
そんな状態じゃあ、元気になれるはずの人も、よけいに心身を病んでしまうぞ。」
こう思うしかなかったです。
こんな異常な状態をキープできる病院やそこで働くスタッフは、どこか精神がおかしいのではないか、とまで思いましたね。
そんなわけで、入院した祖母・慶子に会えずに、やきもきし苛立つ状態で私は過ごしたのですが、11月16日の午前中に病院から電話があり、こう告げられました。
「入院中の村本慶子は、もうすぐ死にそうです。
今はまだ意識があるので、今のうちに家族に面会してもらいたいです。
面会は原則禁止ですが、有料の個室に移動してもらえば、面会は可能です。
個室は、1日2万円です。」
上の電話をうけて、母と私はさっそく真剣に話し合いました。
もちろん慶子に面会したいですが、1日2万円となれば、5日で10万円です。
この時点では、私としては担当医師の言った「年内の命です」という言葉をまだ信じていたし、12月に入ってもまだ慶子は生きていると思ってました。
担当医とは、慶子の状態が落ち着いた時点で、自宅近くの小田原市内の病院に移り、さらに自宅に戻ってそこで最後を迎えるという手筈で話を進めてました。
慶子本人も、私たち家族も、自宅で亡くなるのを希望してました。
その計画が狂ってきたのは感じましたが、なんとか計画通りに進めたいと思ってました。
私たち家族としては、慶子はまだ半月や1ヵ月は生きると思ってました。
そうなると、1日2万円の個室ならば数十万円が個室費用だけでかかる計算になります。
病状が一進一退のまま進み、予想外に長く生きるパターンもあるし、そうなれば100万円を突破するでしょう。
結局のところ、1日2万円でもそちらの病室に移動するのを希望するしかありませんでした。
そりゃあそうでしょう。
入院して以来、一度も会えていない祖母に会えるのだし、「もうすぐ死にそうです」みたいな事を病院側から言われたら、どうしようもないです。
私はこの時も、腹が立って仕方なかったです。
私や家族が面会して、慶子の病状が分かっていれば、「これだけ酷い身体状態ならば個室に行ったほうがいい」とか判断できます。
しかし1回も面会できていません。
慶子の顔を1度も見てません。
それでいきなり病院から電話があり、「1日2万円の個室ならば面会できます。それをお奨めします」と言われたわけです。
家族の私としては、慶子を人質にとられて、全く面会を許されず、人質犯から「1日2万円を支払えば、面会させてやる」と要求されたのに近い印象でした。
病院への不信感がさらに高まり、カネを吸い上げる悪の組織に見えてしまいました。
ぶっちゃけ悪人の要求に、やむをえず破産も覚悟で応じた感じでした。
そもそも、東海大学付属病院に入院する時から、不信感があったんですよね。
慶子が救急車で家から近くの病院に運ばれた日、検査した結果そこでは対処できないとの事で、すぐさま車で45分くらいの場所にある東海大学付属病院に転院になりました。
そこまではいいんですが、東海大学付属病院は「いま入院患者が一杯で、普通の病室に空きはありません。1日2.7万円の病室ならば空いてます」と言ってきました。
救急車で運ばれた慶子を、そのまま帰らすわけにもいかないし、毎日2.7万円かかるのを承知で、入院させました。
しかし10日で27万円、1ヵ月で80万円ほどになってしまいます。
普通の家庭ならば簡単に用意できる金額ではありません。
そういう金額を、当たり前に要求してくる大学病院の姿を見て、「あまりに非常識である。人間の心が通っているのか?」と思いました。
幸い私の弟が医者で、「数日でもっと安い一般病室に移れるはずだ」と指摘してくれて、事実そうなったのですが、もしその話を聞けなければ「破産するかもしれない」と不安で一杯になったでしょう。
大病を患った人が治療費や入院費で破産するという話を、特に医療保険制度の未熟なアメリカでよく聞きますが、今回、それを肌で実感しました。
治療費とは別に、1日に2万円とか2.7万円もとられたら、破産の2文字が自然に浮かびます。
繰り返しになりますが、そういう金額を当然の顔で要求してくる病院は、非常識かつ不健全で、医者の風上にも置けないと思います。
私は今でも、怒りは収まっていません。
というか、こんな事が他の人々にも起きるのは、何としても防ぎたいので、告発する意味できちんとここに書くことにしました。
いま、コロナワクチンの副作用や後遺症で苦しむ人が大量に出てきています。
ツイッターには、苦しむ人々のコメントが集まってますが、読むと治療費で破産しそうと述べている方が散見されます。
コロナワクチンの有効性や健康被害を含めて、医療の在り方を、医療従事者たちは真剣に考える時だと思います。
東海大学付属病院に接してみて、ビジネスに特化した組織で、悪質なビジネスもいとわない大企業に見えて仕方なかったです。
金儲けになるからと、副作用(心筋炎など)がすでに確定したコロナワクチンを、いつまでも射ち続けていいのか。
健康被害がでたら「射った人の自己責任」とか「ワクチンとの因果関係が不明」と言って責任を回避し、その治療費でまた稼ぐ。
そういう行為に恥を感じないのか。
私は、医療従事者たちに問いたいです。
話を祖母・慶子に戻しますが、11月16日の午前中に東海大学付属病院から電話があり、「1日2万円の個室に移れば、面会が可能です」と提案されたのは前述した通りです。
背に腹はかえられず、すぐに個室に移してもらいました。
そうしてその日の夕方に病院に行き、慶子に面会しました。
しかしこの時には、すでに慶子には目を開けたり会話したりする力はなく、私たち家族は慶子が目を閉じて点滴を受けながらベッドに横になっている姿を見ることしか出来ませんでした。
看護士の説明では、前日には会話が出来ており、この日も朝には「村本さーん」と呼びかけると目は開かなかったが返事はしたそうです。
しかし、私たち家族が面会した夕方には会話が不可能でした。
私たちは「明日になれば会話できるかも。家に居た時も夕方は調子が悪く、朝のほうが調子が良かった」なんて話したのですが、ついにその後に慶子は一度も目を開けず、会話も出来ずに亡くなる事になります。
病院側はコロナウイルスへの警戒から、面会は1人づつで行い、1回15分までと指示してきました。
それで私たち家族は、1人づつ病室に行きました。
私も1人で病室に入りましたが、そこには意識のない慶子が点滴を受けながら唯一人で横たわっていて、実に寂しい光景でした。
慶子は入院してからずっと家族に会えず、ついにはこんな姿になり、それでも面会時間が制限されて家族と自由に会えない。
こんな不条理で非人間的な環境に、祖母を置いてしまった事を、私は激しく後悔しました。
入院した日、母が単独で慶子の状態が危険と判断して、訪問看護士に相談し、救急車が呼ばれて入院になったのですが、「その判断は間違っていたのではないか、あの時まだ家に居たほうが良かったのではないか」と思いました。
正解は出ない問題ですが、こんな寂しい環境には出来るだけ置くべきではない、自宅にまだ留まれたのではないか、そう思いました。
長く一緒に暮らし、入院する時まで意識のあった慶子の、変わり果てた姿を見て、さすがの私も泣きました。
病室で慶子と2人きりで誰も見ていないため、安心して泣くことができました。
何とか自宅に戻ってほしいと思ってきましたが、入院時よりもだいぶ弱っているのが見てとれて、「この場所で亡くなるのか」と感じました。
じっくりと慶子の様子を観察しましたが、入院前よりも改善している点は1つも無くて、「何をやってんだ病院は。預けた意味がないじゃないか。」と不満で一杯になりました。
慶子は入院する前に食事量が少なくなり、ガリガリに痩せてましたが、入院してから点滴を受けまくったようで、全身に水が溜まり、手などがパンパンに腫れてました。
内臓が弱ったせいで、小便がほとんど出なくなり、それでも点滴はされるので、水が身体に溜まるのでしょう。
腹の辺りを触ると、水が大量に溜まっているのが分かりました。
私の祖父(慶子の夫)が亡くなった時も、最後は点滴の日々で、骨だけに痩せているのに腹には水がたっぷりと溜まってました。
同じ状態になった慶子を見て、「これはヤバイぞ」と思いました。
その日の夜は、布団に入ってからも慶子と一緒に暮らした日々の思い出が蘇ってきたり、慶子をあのタイミングで入院させたのは間違いだったのではないかと考えたりで、なかなか眠れませんでした。
寝てもすぐに起きてしまい、3時間くらいしか寝られませんでした。
翌17日の私は、敬愛する女優の花總まりが出演する舞台を観に行く予定がありました。
チケットは数カ月前にとっていて、慶子が入院するだいぶ前でした。
その頃から慶子の体調は悪かったのですが、まさか観劇する頃に彼女が入院しているとは夢にも思ってませんでした。
慶子が入院する前から、慶子の介護が大変で私はあまり寝られないほどだったので、疲れが溜まっており、観劇しない事も考えました。
しかしこの日、朝起きてみたら意外なほど身体が軽かったので、気分転換もしたかったし、観劇に行くことにしました。
この観劇の感想は、別記事にしたいと思います。
書いたらリンクを貼ります。
(2021年12月31日に追記。
観劇の感想を書きました。こちらのページです。)
観劇を終えたのは午後の2時半で、すぐに帰路につきましたが、劇場を出て最寄りの駅に着き、さあ電車に乗ろうとしたところ、母から電話がありました。
そして「病院から危篤との連絡があったので、そのまま病院に向かってほしい」と告げられました。
「マジか!!!」と激しく焦りましたね。
「今日亡くなったら、一生忘れられない観劇になるな」とか「観劇しないほうが良かったかな」とか「今日亡くなったら、花總まりとは不思議な縁があると言わざるを得んな」とか思いつつ、電車に乗って病院に向かいました。
途中で母と合流し、病院に着いて病室に入ったところ、酸素吸入器が口に装着された慶子がいました。
脈拍や血圧を測る装置が繋がれていて、数値が下がると出る黄色の警告マークがしょっちゅう点灯してました。
看護士は「今夜は山場です、一緒にいてあげて下さい」と言いました。
この状況になり、さすがに病院側も面会についてうるさく言わなくなりました。
弟も病院に来てましたが、私たち家族3人は一緒に病室に入れるようになり、時間も好きなだけ居られるようになりました。
その後、慶子がいつ亡くなるのか分からないので、病院に泊まるか迷いました。
医者の弟は、「夜に亡くなる患者が多い」と言いました。
時間帯でいうと、昼よりも夜に亡くなるほうが断然多いと言う。
それで病院の待合室のソファーで一晩すごそうかと思ったのですが、弟は「ベッドで少しでも眠れれば良いのだが、ソファーみたいな所で横になっても疲れはとれない。徹夜になると身体がもたない」と指摘しました。
医者で夜勤もする弟は、そういった事に詳しいのです。
それで、私は試しに待合室のソファーに身を横たえて寝てみたのですが、病院なので電灯が点いていて明るいし、すぐ近くに看護士のいるステーションがあって落ち着かないしで、全く寝られそうにありませんでした。
弟の言う「徹夜になると身体がもたない」との話が、現実味のあるものと分かり、祖母が今夜に亡くならなかった場合、身体がもたなくなると感じました。
弟は前述した脈拍や血圧を測定する装置の見方も分かっており、「今のところ安定している、おばあちゃん頑張ってるな」と言いました。
夜11時くらいになり、慶子の様子は落ち着いているので、家族で相談した結果、とりあえず帰宅して休息し態勢を整える事にしました。
で、弟は車で来ていたので、家まで送ってくれる事になりました。
私は小田原駅に自転車を置いていたので、その近くで降ろしてもらい、自転車を回収して帰宅しました。
家に着く頃には、すでに0時を回り、11月18日になってました。
風呂に入った後は、ものすごく心身共に疲れていたので、爆睡しました。
午前8時くらいに起きようと思ってましたが、起きたら10時で、母はすでに病院に行ってました。
母からのメールで、慶子の状態は安定していると知りました。
それで食事して、車で病院に向かいました。
伊勢原にある東海大学付属病院までの道のりも、何回も通ううちにすっかり覚えていました。
病院に着いて病室に入り、慶子の様子を見たところ、前日よりもやや弱った感じがありつつも、あまり変化がありませんでした。
危篤状態ではあるが、ひとまず安定しているらしく、90歳をとうに過ぎているのに今年の6月くらいまでは杖は必要ながらも一人で歩けていた慶子の生命力の強さを、改めて感じさせられました。
弟が「夜に亡くなる患者が多い」と言っていたし、今日の夜まではとりあえず大丈夫なんじゃないかと思いました。
そこからは慶子の病室で過ごしたり、待合室で過ごしましたが、病院は空気がよどんで悪いし、空調が変に効いていて体温調節が難しく、そこに居るだけで疲れました。
病院の持つ陰鬱な雰囲気も、精神へのダメージがあります。
もちろん、慶子の状態がいつ悪化して亡くなるか分からないという緊張も、疲労になります。
そんなわけで、夜の10時くらいにはクタクタに疲れてました。
やってみて分かりましたが、危篤の家族に病院で付きそうというのは、我慢比べ大会に出るような感じで、時間が遅く感じられて、しょっちゅう時計を見てしまいます。
途中、弟が「少し病院から出て新鮮な空気を吸うと楽になる」と言うので、病院を出て散歩してみたところ、かなり疲れがとれました。
よく思うのですが、病院という所は、病気を治す所なのに、そこに居ると心身が著しく疲弊するという、大矛盾を抱えていますね。
弟は20時くらいに帰宅し、私と母が病院に残りました。
今晩が山場かもと思い、今夜は病院に泊まろうかと思ったのですが、病室と待合室のソファーに横になって2時間くらい過ごしてみましたが、疲労は全く抜けず溜まる一方でした。
こんな状態で家に帰らずに過ごしたら、身体を壊すと思いました。
だから深夜0時くらいになり、慶子の様子は落ち着いているので、母にいったん帰宅しようと提案しました。
しかし、母は残ると言いました。
私は迷ったんですが、慶子の洗濯物があるし、ずっと家を空けておくのも不用心なので、私だけ帰宅することにしました。
慶子が今夜に亡くなる可能性があると感じたのですが、そうなったらすぐに病院に戻るしかないと、ある種の諦めをしました。
車で家に戻る途中、「慶子が亡くなった」との電話かメールがくるのではないかと思えて、何度も携帯電話をチェックしてしまいました。
ハンドルを握って運転しながら、「やっぱり引き返そうかな」と思ったりもしました。
家に着いたのは深夜1時で、慶子の洗濯物を洗ったり風呂に入ったりして、ベッドに入ったのは2時でした。
しかし慶子の事が頭を離れず、慶子の状態が気になるし、色んな思い出が蘇ってきたりするしで、なかなか寝られませんでした。
結局4時~8時くらいまで寝て、準備してまた病院に行きました。
車を東海大学付属病院に走らせつつ、「こんな生活が続いたら身体がおかしくなる」と思いました。
慶子の入院前に、彼女の介護をしている時も毎日大変で、「こんな生活が続いたら身体がもたない」と思ってたのですが、そのまま慶子の入院になだれ込み、疲労困憊の状態でした。
「世間では介護疲れで病気になったとか、介護疲れから精神を病んだとか言う事があるが、本当にあり得る事だ」と痛感しました。
病院に着いて慶子に会うと、相変わらず危篤状態で、呼吸が昨日よりも浅くなっていました。
血圧などの数値も、少しづつ下がってきていて、昨日より平均値がやや低めでした。
慶子の呼吸がこれまでよりも浅くて、見ようによっては辛そうだったのですが、表情は苦しそうではなく、単に弱っている感じでした。
私は慶子の表情をずっと見てましたが、11月16日に面会できて以降、苦しそうな表情は1度もしていませんでした。
ただ目を閉じたまま、大儀そうに呼吸をしているだけでした。
もはや私に出来ることは無く、慶子の病室に居て、難儀そうに呼吸している慶子と一緒にすごし見守るだけでした。
看護士がたまに来て、点滴を取り替えたり、慶子の身体を少し動かしたりしました。
この時点でも、私は心の中で「急激に回復して、退院して家に帰れるかもしれない」と少しは思ってました。
事実、そういう例もあるので。
しかし慶子は97歳で、前述したように祖父が亡くなった時と同じ身体状況に追い込まれていたので、「さすがに厳しいか」とも思ってました。
結局のところ、生きるか死ぬかは慶子が決める事なので、「あとは本人に任せるしかない」と、私は慶子が体調を急激に悪化させた今年の夏時点から思ってました。
私としてはまだ慶子に生きていて欲しかったのですが、慶子自身が3年くらい前から「もう十分に生きた」とか「身体はどんどん死んでいくが、なかなか心がついていかない」とか言っていたので、今世を終える決断をしてもおかしくないと思ってました。
私は『神との対話』シリーズを読んで、人は自分が死ぬと決めた時に死ぬと理解したし、本人が死ぬと決めたら止められない事も理解しました。
私の見るところ、慶子は自分なりに生きてきて、今世を振り返った時に不満は無さそうでした。
慶子は友達とワイワイするのと、食べることを一番の楽しみしている人でしたが、長年の友達や親戚が次々と亡くなり、歯が悪くなって残りが数本になってしまい満足に食べられなくなってからは、明らかに寂しそうでした。
だから「今世を終えて、別の人生を歩む決断をしても不思議ではない」と、私は口には出しませんでしたが、思ってました。
そんなわけで、私の心の準備というか覚悟は出来てました。
そうして11月19日の21時すぎに、慶子は亡くなりました。
その少し前に、看護士の方が「数値が落ちてきたので、そろそろ最後だと思います」と言ってきて、病室で慶子を見守っていたのですが、本当にその通りになりました。
まず心臓が停止し、10秒くらいで呼吸も止まりました。
その瞬間は、さすがに涙が出ました。
慶子が亡くなったので、担当医に死亡確認をしてもらう事になりました。
で、その場で待っていたのですが、なかなか来ません。
その間、慶子が亡くなったので、身体に繋がっている血圧や脈拍を測る装置が、「おいっ、大変な事になってるぞ」と赤色の警告ランプとビー、ビーいう音を出し続けてました。
看護士の方が部屋に一人いて、止めてくれるかと思ったのですが、放置したままでした。
たぶんなんですが、担当医が死亡確認をするまでは、装置を止めてはいけないのでしょう。
しかし、慶子が亡くなり、ビー、ビーと装置が最大限の警告を発し続ける中で、黙々と家族と看護士が立ち尽くしている絵は、なかなかシュールでしたね。
10分くらいしたら、担当医が来ました。
そして脈を見たりとか、決まった手順を踏んで時間をかけて死亡の確認をしたのですが、ちょっと笑えました。
どう見ても、死んでるので。
一目で死んでると、素人でも分かるし、装置が「死んでますぞ」と報告しているのだから。
儀式としてやっているのでしょうけど、意味はないですね。
その医者は重々しい雰囲気で、脈をみたり心臓に聴診器をあてたりした後に、時計を見て「何時何分に死亡されました」と言いましたが、パッと一目見て「亡くなられました」でいい気がします。
死亡時刻も、10分ずれているし。
簡単に済ますと怒る人がいるんですかね。
さて。
私は、家族が亡くなった悲しみの余韻に、ゆっくり浸りたい心境でした。
しかし、そうはいきませんでした。
慶子が亡くなった以上、出来るだけ早く病院から撤収しなければなりません。
病院側が病室に余裕がないのでそれを求めていたし、我々家族としても1日2万円の病室にダラダラと残ってさらに2万円を追加されるのもバカバカしいです。
そういうわけで、慶子の死亡確認がとれたら、直後に葬儀屋に連絡しました。
病院から家まで慶子を運ばねばならず、それは葬儀屋の仕事の1つなのです。
すでに葬儀屋の目途はつけており、連絡したところ1時間くらいで来るとの事でした。
病院側の手配で、慶子の遺体は仮の安置所みたいな所に運ばれました。
で、その部屋で葬儀屋の来るのを待ちました。
私がとても面白いと思ったのは、葬儀屋が来た後、担当医、担当看護士が慶子の遺体に焼香をしにわざわざ来て、慶子が車に乗せられて出発するのも見送った事です。
家族としては悪い気はしませんが、夜の11時くらいで夜勤の最中なのに、それをする意味があるのだろうかと、不思議でした。
病院が従業員に定めたルールなのでしょうが、これまた儀式でしたね。
私は、病院それも大病院という所は、合理的な精神の塊だろうと考えてました。
ところが、東海大学付属病院で慶子の死に立ち会ってみて、全く合理的でない儀式を2つ目の当たりにし、実に意外な思いでした。
しかし考えてみると、人の死や医術というのは、昔は占術や儀式と密接に結びついていました。
そういう部分は、現代でも、大病院でも、残っているのだと知りました。
慶子が運ばれて自宅のベッドに寝かされて、ドライアイスで冷やされて、葬儀屋が帰ると、ようやく一段落しました。
私たち家族は、相談した結果、葬式を出来るだけ簡素化するスタイルでいく事にしました。
私は、葬式や法事という、儀式そのものの世界が、どうしても苦手です。
誰も楽しくないでしょ、あんなものは。
一番楽しんでいるのは、葬儀屋と寺の僧侶なのではと思えるくらいです。
さらには、今はコロナウイルスのことがあって、人が集まりにくい状況です。
というわけで、「家族葬」というやつに決めました。
慶子は長いこと学校の教師をしていたので、生徒だった方々に連絡すると葬儀に参加を希望する者が出ると予想できましたが、あえて葬式が終わるまで連絡しない事にしました。
葬儀屋からも、「火葬場に来るのはコロナがあるので10人までにして下さい」と言われてました。
火葬は11月24日に無事に終わりました。
ちなみに、火葬場で隣りだった家族は、10人までの制限があるはずが、20人以上来てました。
正直なところ、コロナの新規感染者が全国でも200人に届かない現在、「規制をかける状況ではない」と私は考えているので、何の問題もないと思いました。
誰かが作った規制を、深刻にとらえて厳格に適用しだすと、社会がギスギスするのでね。
10人までと言われて20人来るぐらいの適当さで良いんですよ。
だって感染者が少ないし、死者も毎日1人とかですから。
以上で、村本慶子が亡くなった報告を終えます。
慶子の介護をした日々についても、余裕のある時に記事にしたいと思ってます。