(『わかりやすいベトナム戦争』から抜粋)
1952年の春になると、ベトミン軍は攻勢に出て、支配地域を増やしていった。
53年に入ると、南部にまで支配地を拡大し、4月には隣国ラオスにも進攻して、ラオスのフランス勢力と戦うまでになった。
インドシナ戦争が長引くと、フランスは戦争を続ける国力が無くなった。
フランス本国は、軍の立て直しをはかるために、53年5月にナバール将軍を派遣した。
ナバールは、戦局を一挙に転換しようとし、大作戦を実行した。
これが、フランス軍の命取りとなった「ディエン・ビエン・フーの戦い」である。
ナバールは、ハノイの西450kmのディエン・ビエン・フー(ラオスとの国境に近い山岳地帯)に、大規模攻勢のための基地を造ろうと考えた。
ここに基地ができれば、敵の補給路を断ち、敵を殲滅しやすくなる。
これは、後のベトナム戦争で屈指の激戦になったケサン基地の攻防と同様の作戦である。
フランス軍の作戦は、1953年11月10日に開始された。
そしてディエン・ビエン・フーに基地を造った。
ベトミン軍は、12月から基地の奪取にかかった。
両軍ともに最精鋭の兵力を投入した。
ベトミン軍は、54年3月初めまでに、ディエン・ビエン・フーを囲む山岳に基地を造った。
54年3月13日に、ベトミン軍は総攻撃を始めた。
フランス軍の3倍の兵力がおり、戦局はベトミン軍に有利で進んだ。
この時は、ジュネーブ休戦会議の開幕が迫っており、ベトミン軍はディエン・ビエン・フー基地を陥落させることで会議を有利にしようとした。
そして5月7日に陥落させて、フランス軍の1万人を降伏させた。
「ディエン・ビエン・フーの戦い」では、フランス軍は戦死者2293人、負傷者は5134人となった。
ベトミン軍は戦死者8000人、負傷者は15000人だった。
捕虜になったフランス軍1万人のうち、帰国できたのは半数と言われている。
(負傷や病気で死んだのか?)
この戦いでのフランス軍の大敗は、同国が東南アジアから撤退するきっかけになった。
陥落の翌日(8日)から、ジュネーブ会議は開幕した。
インドシナ戦争の7年8ヶ月の間に、フランス軍は8.8万人の死者を出し、フランス側についたベトナム人の軍は8.5万人の死者を出した。
ベトミン軍とその支援勢力は、60万人の死者を出した。
フランスの戦費は、当時の金額で17億ドルに達した。
フランスが戦争中に疲弊すると、それに代わってアメリカが軍事支援を行った。
援助の総額は、10億ドルを超えた。
アメリカは、400人の軍事顧問団も派遣した。
アメリカは、フランスの失敗から学ぶ事をせずに、後にベトナムに介入して悲劇の戦争を起こす。
(2014.6.6.)