(『これならわかるベトナムの歴史』から抜粋)
フランスは1887年に、ベトナムなどの植民地を「植民地省」に移して、「インドシナ総督」に治めさせる事にした。
総督府は、ベトナムのハノイに置いた。
後にラオスなどを支配地に加えて、『フランス領インドシナ連邦』が作られた。
フランスは、ヴァンタン(村々の知識人)による村の自治をある程度は認めて、グエン朝時代の役人たちを起用し、間接的に統治した。
そして、人頭税は5倍に、土地税は1.5倍に引き上げ、塩・アルコール・アヘンに税金をかけた。
その税金を元に大規模な鉄道を建設し、フランス企業が進出するための基盤を作った。
フランスは、漢字の使用と科挙を廃止して、フランス式の教育に切り替えた。
そして、優秀な生徒はフランス本国に留学させて、フランスに協力するベトナム人を育成しようとした。
(ベトナムはそれまで、中国の文化圏にあり、中国の文字や制度を重視していた)
しかし、優秀なベトナム人が学べば学ぶほど、彼らはフランスの近代思想(自由・平等・博愛)とベトナムの現状との矛盾に気づいた。
ベトナムに住むフランス人には人頭税はかからないのに、なぜベトナム人にはかかるのか。
それを考えただけでも、矛盾は分かる。
フランスの植民地になるまでは、ベトナムのメコン・デルタはうっそうとした熱帯の森林であった。
フランスはこの地の大々的な開発に、19世紀後半に乗り出した。
そして各植民地から開拓のために農民を連れてきて、運河を建設し、灌漑設備を整えた。
こうして、この地域は広大な水田地帯となり、水田の面積は25万ヘクタール→127万ヘクタールへと5倍に増えた。
植民地政府は、土地をフランス人や協力的なベトナム人に譲った。
譲渡された者たちは、政府からの低金利の融資を使って、所有地を広げていった。
こうして出来た水田は、「カイ」と呼ばれる小作仲介人を通して、小作人たちに振り分けられた。
小作人たちは、60%の小作料を取り立てられた。
1920年代末には、一部の地主たちが50%の水田を所有するようになった。
カントー省のある村では、3分の2はその地に住んでいない不在地主の土地であった。
水田で採れた米は、インド・フィリピン・シンガポールなどに輸出されて、その地のプランテーションで働く労働者たちに供給された。
後には、フランス本国にも輸出された。
(2014.3.14.)