(『これならわかるベトナムの歴史』から抜粋)
ファン・ボイ・チャウは、ベトナム中部のゲアン省の貧しい農村で、1867年に生まれた。
父は儒学者であり、ファンは1900年に科挙に合格した。
ファンは、各地でヴァンタン(知識人)が蜂起するのを見て、自分も加わる事にした。
彼は、各地で単独に蜂起してもフランスに太刀打ちできない事を悟り、同志を募って各地を回った。
そして、『ベトナム維新会』を創り、援助を求めて1900年に日本に渡った。
彼は、後に首相となる犬養毅から「人材の育成こそが国づくりの基本だ」と諭され、ベトナム青年の日本留学を呼びかけた。
これを、『ドンズー(東遊)運動』という。
一時は200人を超えるベトナム青年が日本に留学したが、1907年に日本とフランスが協定を結ぶと、頓挫した。
この協定では、フランスは日本の韓国での権益を認め、日本はフランスのインドシナ支配を認めた。
そのためフランスは、協定を盾にして、ベトナム青年の日本追放を要求したのである。
この日本の態度を見て、ファン・ボイ・チャウらは「日本は、フランスとなんら変わらない」と失望した。
ファンは中国に渡り、活動を続けた。
1911年に中国で辛亥革命が成功すると、ファンはこの革命に倣って『ベトナム光復会』を結成した。
しかし武装蜂起に失敗して捕まり、終身刑となりフエに軟禁された。
(2014.3.14.)