(『鉄・仮・面』ハリー・トンプソン著から抜粋)
1703年11月に、ある男が病死した。
埋葬の時、遺体の顔は潰してあった。
この男の埋葬は、ヴェルサイユ宮殿に住む国王ルイ14世に報告された。
この日も、ヴェルサイユ宮殿ではいつもの様に、豪勢な宴がくり広げられていた。
この日、ルイ14世は34年もの間抱えていた恐怖、ある囚人への恐怖から、ようやく解放されたのだった。
有名な「鉄仮面の男」は実在した。
独房に34年も、顔を隠されたままで閉じ込められた男は、かなり身分の高い者だったらしい。
彼は特別扱いを受けて、贅沢な暮らしを独房で続けた。
看守たちは、「仮面の男が口を開いて秘密を漏らそうとしたら、殺せ」と命じられていた。
仮面の男を埋葬したのは、(バスティーユ監獄の)マジェール・ロザルジュ副官と、レーイェ医師だった。
ロザルジュは、34年にわたって仮面の男の看守を務めた男である。
埋葬の記録名簿には、「バスティーユ(監獄)にて、マルショワリー(という男が)、推定45歳で獄死」と書いてある。
バスティーユ監獄に、仮面の男の埋葬から間もなく赴任したグリフェ神父は、こう書いている。
「ミサに参加する仮面の男を、バスティーユの兵士や下僕たちは見かけていた。
仮面の男の死後、上からの命令で、男が使用していたものは全て燃やされた。
(仮面の男のいた)居室(独房)の壁は、削り落として白く塗り直され、床のタイルまで全て剥がして張り替えられたという。」
グリフェ神父より後に赴任したシュヴァリエも、こう書いている。
「仮面の男は、病気らしい様子はなかったのに、数時間の不快を訴えただけで、あっけなく死亡した。
1703年11月20日に、サン・ポールの墓地に埋葬され、名はマルシェルクと記された。」
仮面の男について書いた、ランゲという元囚人がいる。
「常に司令官が自ら、仮面の男の世話にあたった。
ミサに行く際は、仮面の男は口をきくことも素顔をさらすことも禁じられ、それを破った時は兵士たちが撃ち殺してよいとの命令が出ていた。」
バスティーユ監獄は、普通の監獄と違って、良質のワインが出されるし、楽器を弾いたり、ペットを飼ったりできた。
その中でも、仮面の男は特別扱いで、サン・マール司令官とロザルジュ副官から極めて丁重に扱われていた。
1715年にルイ14世は死去したが、それから50年後にエティエンヌ・デュ・ジョンカの日記が発見された。
デュ・ジョンカは、バスティーユ監獄におけるルイ14世の代理官をつとめた人で、サン・マール司令官に次ぐ指揮権を持っていた。
デュ・ジョンカの1703年11月19日の日記には、こうある。
「かの正体不明の囚人は、今夜10時に死亡した。
常に黒ビロードの仮面で顔をおおい、サン・マールによってサント・マルゲリット島(の監獄)から連行されてきたこの男は、昨日からいくぶん身体が不調だったらしい。
その死はあまりに突然で、神父が秘蹟を授ける間もなく息を引き取った。
後に聞いたところでは、埋葬名簿にはド・マルシーユと記したという。」
男がつけていた仮面が、黒ビロード製だったのは、前述の元囚人ランゲも証言している。
「私の知るバスティーユ監獄時代の仮面は、黒ビロード製であって、鉄ではない。」
デュ・ジョンカの日記をさかのぼると、1698年9月18日にこう書いてある。
「バスティーユ監獄の新しい司令官であるサン・マール氏が、前任地のサント・マルゲリット島から着任してきた。
サン・マールは、自分の輿の中に、ピネロル監獄にいた時代から監督下に置いてきた、『古い囚人』を同乗させてきた。
この囚人は、常に仮面を被っている。
サン・マールに同行してきた副官の1人であるロザルジュ氏の立ち会いのもとで、囚人はベルトディエ塔の第3独房に収監された。
ロザルジュが囚人の世話をし、サン・マールが食事の世話をすることになっている。」
仮面の男がバスティーユ監獄に連行されてきた時、門衛たちは命令された通りにし、周囲の商店をすべて閉店させて、自分たちも顔を壁に向けて囚人を見ないようにした。
だいぶ後になってから発見された、バスティーユ監獄の書類から、仮面の男を最初に管理したのは陸軍大臣のルヴォワだった事と、仮面の男は最初はピネロル監獄に入れられた事が分かった。
三銃士の小説を書いたアレクサンドル・デュマは、その小説に仮面の囚人を登場させている。
デュマは、史実と虚構を混ぜて書いたが、『三銃士・最後の冒険』では銃士アラミスが鉄仮面の男の正体を突き止めて、国王ルイ14世の隠された双子の兄としている。
アラミスは国王と囚人の兄をすり替えようとして、最後はスペインに逃れている。
デュマは、仮面の男が国王の双子の兄という設定を、ドラ・キュビエールと大修道院長スラヴィの著述から採った。
仮面の男を最初に本格的に調査したのは、作家のヴォルテールだった。
彼は何年もかけて情報収集したが、彼は微罪でバスティーユ監獄に投獄された事があり、その時に仮面の囚人について耳にして、興味を持ったのである。
ヴォルテールは1751年に著書を出し、こう書いた。
「仮面の囚人は、人並はずれた長身で、上品な様子だった。
この囚人がサント・マルゲリット島の監獄にいたのは、元はピネロル監獄の司令官だったサン・マールが、バスティーユ監獄の司令官に任命された1690年までだった。
サント・マルゲリット島からバスティーユへの移送に先がけて、ルヴォワ侯爵がサント・マルゲリット島を訪れて、仮面の囚人と面談した。
この時ルヴォワは、囚人の前でうやうやしい態度をとった。
仮面の囚人がサント・マルゲリット島の監獄に連れてこられた当初に、囚人は銀の皿にナイフで文字を刻み、窓の外の川にいる一隻の小舟めがけて放った。
その小舟の漁師は皿を拾って、監獄の司令官に持っていった。
司令官は『皿にある文字を読んだのか?』と尋ねたが、漁師は『字が読めないので』と答えた。
司令官は『お前は読み方を知らなくて運が良かったのだぞ』と言って、漁師を帰らせた。」
ヴォルテールは1771年の第二版に入れた『作者の言葉』で、こう述べている。
「仮面の男は、ルイ14世の兄だった。
(ルイ14世の父とされている)ルイ13世は、王妃と長く別居していた。
ルイ14世の誕生は、『事故の賜物』だった。
王妃は、自分は子供を産めない体だと思っていたが、(浮気した結果)鉄仮面の男の誕生で、思い違いだと知った。
王妃から秘密を打ち明けられたリシュリュー枢機卿は、自らの利益を考えて王妃と性交し、ルイ14世が産まれた。
リシュリューと王妃は、仮面の男の存在は隠しておく必要があると考えて、密かによそへ移した。
後になって兄がいると知ったルイ14世は、兄を逮捕して監獄に入れたのである。」
上記のヴォルテールの説は広く信じられたが、王家に庶子は多いし、ルイ14世にも庶子は10人もいた。
だからそれだけでは仮面の男を説明できない。
もっと異常な事情があるはずだ。
ヴォルテールの著述には、いくつか間違いがある。
サン・マールがバスティーユ監獄に赴任したのは1698年だし、ルヴィワが囚人に会ったのはサント・マルゲリット島ではなく1670年にピネロル監獄でだった。
バスティーユ監獄で働いた医師のうち、マルゾランは仮面の男について書き残している。
「ほれぼれするほど見事な体格で、肌はかなり褐色をおび、声音も立派だった。」
マルゾランは、仮面の男から「年齢は60歳くらいだ」と聞き出している。
逆算すると、1630年代の末から1640年代の初めに生まれたことになる。
そして逮捕されたのは30歳頃となる。
ラグランジュ・シャンセルという劇作家は、サン・マールの後任でサント・マルゲリット島の司令官になったラモット・ゲランに、仮面の男のことを聞いている。
ラモット・ゲランは断固として口調で、「仮面の男が初めて投獄されたのは、1669年である。これは監獄の記録にある。」と証言した。
ゲランは、仮面の男とサン・マールのやり取りも語った。
仮面の男「国王(ルイ14世)は、私の命をお望みなのか?」
サン・マール「いいえ、殿下。御身は安全です。ただ導かれるままになさればよいのです。」
仮面の男を最後に監督(担当)した大臣は、ミシェル・シャミヤール陸軍大臣だが、彼は息子に死ぬ間際にこう語った。
「仮面の男は、ニコラ・フーケ元大臣の秘密を全て知っている人物だ。」
実は、仮面の男とフーケは、高山にあるピネロル監獄に一緒に入っていた時期がある。
なお、シャミヤールの前任の陸軍大臣だったルヴォワとバルベジューは、それぞれ1691年と1701年に死んでいるが、ルイ14世の手の者によって毒殺された可能性が高い。
仮面の男の管理を10年任されたバルベジュー陸軍大臣は、前任の陸軍大臣だったルヴォワの息子である。
バルベジューは、父が1691年に何者かに毒殺されると、陸軍大臣を継いだ。
バルベジューが1701年に死ぬと、シャミヤールが後を継いだ。
仮面の男をずっと監督下に置いたサン・マールは、仮面の男より5年長生きして、1708年に死んだ。
サン・マールの副官をつとめたマジェール・ロザルジュは1707年に、同じく副官をしたアントワーヌ・リュは1713年に死んだ。
『回想録』を書いたサン・シモン公爵によると、フランス宮廷の郵便物はすべて検閲官の手を経ていたという。
サン・マールがヴェルサイユ宮殿に送った報告書は、ほぼ全てが処分されてしまった。
ルイ14世は死ぬ前に、仮面の男について甥のオルレアン公フィリップに打ち明けた。
フィリップは、ルイ15世の摂政をつとめたが、ルイ15世が成人すると仮面の男の秘密を伝えた。
その時ルイ15世は、「もしその方が今も生きていたら、私は自由にしたのに」とポツリと言った。
ルイ15世はこの秘密を誰にも伝えずに死んだ。
後を継いだルイ16世は、仮面の男の正体を突き止めようとし、モールパに公文書を調べさせた。
モールパは、「その囚人は、実はイタリアの外交官マティオリだ」との不思議な結論をした。
ルイ15世の友人だったカンパン夫人は、こう語っている。
「モールパによれば、囚人は逆心を抱いた危険人物で、マントヴァ公の家臣だったとのことです」
マティオリというイタリア外交官は実在し、ピネロル監獄に幽閉された人だが、彼が仮面の男だという説は、故意に広められた節がある。
マティオリが仮面の男だという説の出所は、ルイ15世の愛人だったポンパドゥール夫人である。
だがルイ15世は、息子のルイ16世にも仮面の男の正体を話さなかった。
それなのに愛人に話すだろうか。
仮面の男を、ルイ14世とその従妹であるオルレアン公妃アンリエッタとの間に生まれた子だとする説もある。
この2人が愛人関係だったのは事実で、ヴェルデという息子も生まれている。
バルベジュー陸軍大臣の愛人だったサン・カンタン夫人は、こう語っている。
「仮面の囚人は、1626年にバッキンガム公がフランスを訪問した際に、フランスのアンヌ王妃(ルイ13世の妻)との間にこしらえた息子である。
アンヌの保護者だったマザラン枢機卿が1661年に死んだ時、この息子は庇護を失って投獄された。」
バッキンガム公が1626年にフランスに来て、アンヌ王妃といちゃついたのは事実である。
バッキンガム公は浪費家の阿呆で、真珠とダイヤを散りばめた服を着て、その宝石たちが人前でポロポロと落ちるようにあえて緩く縫い付けていた。
この道化ぶりをアンヌは喜んだが、性交にまで及んだかは分からない。
ただ、仮面の男が逮捕される年として1661年は早すぎる。
(2023年2月3~4日に作成)