(『鉄・仮・面』ハリー・トンプソン著から抜粋)
そもそも仮面の囚人は、なぜ仮面を着けさせられていたのだろうか。
『誰か有名な人と顔が似ていたから』と考えるのが、自然だろう。
だがその男は、投獄されるまでの30年は、自由に活動していたのだ。
何か重大な罪を犯し、なおかつ有名人の誰かと似ていたから、仮面を被せられて牢に入れられたのだ。
仮面の男は、1669年にピネロル監獄に収監された事が分かっているが、この時に偽者と国王ルイ14世がすり替えられたという説がある。
(仮面の男は国王だという説)
しかし国王は、それまでに大勢の愛人と接していたし、すり替えは難しい。
仮面の男は、監獄内とはいえ優遇されて、不満をもらさずにかなり満足していたようだ。
彼はシャバに戻りたいと思っていない様に見えたという。
また、仮面の男の秘密がルイ16世に伝えられなかった事を考えると、時間が経てば問題がなくなる秘密ではなかったのだ。
ブルボン王朝が続く限り効力をもつ事柄だったに違いない。
南アルプスの高所にあるピネロル要塞には、囚人を入れる監獄もあった。
1665年に、サン・マールはピネロル監獄の司令官になった。
サン・マールは1626年生まれで、若い頃はベニーニュ・ドーヴェルニュといい、軍人になった。
1661年に国王ルイ14世が、ダルタニャンにニコラ・フーケ大臣の逮捕を命じた時、ダルタニャンは副官としてサン・マールを伴った。
フーケは、逮捕されるまでは最重要の大臣で、フランス王家の内実をすべて知っていたから、ルイ14世はしっかり監禁することにした。
ダルタニャンはその役目に、サン・マールを推挙した。
その後、裁判を経てフーケに終身刑が宣告されると、ダルタニャンはピネロル監獄に護送したが、この時にピネロル監獄の司令官に就いたのがサン・マールだった。
サン・マールはピネロル監獄の司令官になると、囚人たちの行動を報告書でせっせと知らせて、上司たち(国王とその側近)を喜ばせた。
ピロネル要塞の司令官であるド・ピエンヌは、監獄長のサン・マールよりも地位は上だと思っていたが、ルヴォワ陸軍大臣から「特別にサン・マールに従え」と命じられた。
サン・マールの俸給は莫大なもので、年収は現在の数億円になる。
補足すると、サン・マールの義妹であるデュフレズノワ夫人は、ルヴォワ大臣の愛人だった。
陸軍省の記録を見ると、ルイ14世と陸軍大臣は、1人の囚人(仮面の男)に特別の関心を示していたと分かる。
手紙(報告書など)の中では「古い囚人」と呼ばれているが、仮面の男のことである。
面白いのは、年月が経つにつれて、仮面の男の警備と監視がますます厳しくなった事だ。
普通ならば、時間が経てば緩くなりそうなものだ。
ルイ14世は、ある時点でルヴォワ陸軍大臣を信用できなくなったらしく、1691年7月に「ルヴォワを逮捕してバスティーユ監獄に入れろ」と命じた。
ところがルヴォワは、監獄に行く前日に、気分が悪くなり苦悶して死んでしまった。
ルイ14世が毒殺したと言われている。
サン・シモンは著書『回想録』に、こう書いている。
「ルヴォワの突然死は、検死の結果、毒殺と分かった。
彼の召し使いが逮捕されて監獄に入れられたが、わずか4日でルイ14世の命令で釈放になった。
調書は焼かれて、捜査は禁止になった。
この件について話すことさえ危険になり、ルヴォワの家族は不平ひとつ言わなかった。」
ルヴォワの死後、陸軍大臣はルヴォワの息子のバルベジューが継いだ。
このときバルベジューはまだ22歳だった。
バルベジューはぐうたらな放蕩者で、陸軍大臣を10年つとめたが、突然に姿を消した。
当局の発表によれば、「不摂生がたたり、精魂尽き果てた」という。
バルベジューも、父と同様にルイ14世に毒殺されたと思われる。
そして陸軍大臣は、シャミヤールが引き継いだ。
ルイ14世は、仮面の男について「どこの監獄に入っていようと、1人の大臣が単独で管理せよ」と念押ししていた。
だから歴代の陸軍大臣が単独で見ていた。
サン・マールがピネロル監獄の司令官だった時期に、ニコラ・フーケ、フーケの従者のラ・リヴィエール、イタリアの外交官エルコーレ・マティオリ、謎の人物ユスターシュ・ドージェが収監された。
そしてユスターシュ・ドージェは、仮面の男が逮捕・投獄されたという1669年に収監されている。
なおサン・マールは、1665年にピネロル監獄に赴任し、1681年にエグズィル監獄に転任し、1687年にサント・マルゲリット島の監獄に転任して、1698年にバスティーユ監獄に転任した。
イタリア外交官のエルコーレ・マティオリは、1679年5月2日に逮捕されて、ピネロル監獄に入れられた。
マティオリは、ルイ14世を騙して大金を巻き上げようとして、逮捕された。
マティオリを仮面の男だとする研究者もいるが、彼の逮捕は秘密でも何でもなかった。
また彼は、書くことを禁じられた仮面の男と違い、ペンとインクを与えられた。
外国人のマティオリの事が、ブルボン王家の重大な秘密となるのは、変である。
1681年5月12日に、ルヴォワ大臣はサン・マールに次の手紙を送っている。
「ルイ14世は、あなたをエグズィル要塞の司令官にふさわしいと判断された。
陛下が他の者には預けておけぬと考えている重要な囚人たちは、一緒にエグズィルに移し、あなたの監視下に置くようにとの命令である。
なお低い塔にいる2名の囚人に関しては、呼び名以外は名簿に書かぬように。」
後に築城大臣になったデュショーノワはこの時、エグズィルに出張して2名の囚人のために頑丈な独房を造るよう命じられた。
その独房は3ヵ月かけて造られ、それから囚人2名は送られた。
2名のうち1人は仮面の男で間違いないが、もう1人は誰なのか。
サン・マールは、1681年6月25日に、ピネロル監獄から次の手紙をデストラードに送っている。
「昨日に私は、エグズィルに赴任する支度金を受領しました。
自分の連隊と副官2名を同行させて、2羽の監獄鳥を護送していきます。
マティオリは他の2名の囚人と共に、当地に残留することになりました。」
上の手紙から、サン・マールがマティオリを同行させなかった事と、副官のマジュール・ロザルジュとアントワーヌ・リュと共に囚人2名を連行してエグズィルに移った事が分かる。
そして2名の囚人とは、ユスターシュ・ドージェとラ・リヴィエールだった。
ユスターシュ・ドージェが逮捕されたのは1669年だが、その年の7月19日、まだドージェが逮捕される前に、ルヴォワ陸軍大臣はサン・マールにこう命じている。
「国王ルイ14世の命令により、ユスターシュ・ドージェを(逮捕して)ピネロル要塞に護送させる。
お前はこの者を厳重に監禁し、他人に身の上を口外させぬこと。
私がこのように事前に通知するのは、この者の独房を準備してもらいたいからだ。
独房は多重扉とし、食事は1日に1回、お前が自ら持って届けること。
この者が語ることに耳を貸さぬようにし、必要なこと以外を話したら殺すときつく申し渡しておくこと。」
上の手紙から9日後に、ヴォロワ大尉にユスターシュ・ドージェの逮捕命令が出た。
これは、国王じきじきの命令だった。
「ユスターシュ・ドージェを逮捕せよ。
ただちに逮捕し、ピネロル要塞に護送して、サン・マール大尉の監視下に置くべし。」
ルイ14世は、サン・マールへの手紙にこう書いている。
「私はダンケルク城塞の副官ヴォロワに命じて、ユスターシュ・ドージェをピネロル要塞へ送る。
ヴォロワがドージェを伴って到着したら、厳重な監視下に置け。
拘禁中は何人との交信もさせてはならない。」
ユスターシュ・ドージェは、逮捕後に裁判にかけられず、刑の宣告もなかった。
1669年にルイ14世が下した命令の記録簿を見ると、ドージェの逮捕は抜けている。
記録簿に書くには、ジャン・バティスト・コルベール国務長官の署名が必要だから、コルベールはドージェ逮捕を知らされなかったか、承認しなかったと考えられる。
サン・マールはいつも、ユスターシュ・ドージェのことを「私の囚人」とか「ダンケルクから来た囚人」と呼んでいた。
ルヴォワ陸軍大臣は各所にスパイを潜入させていたようで、サン・マールに次の手紙を送っている。
「ある者の通報によれば、(ピネロル監獄に入っている)ニコラ・フーケの下僕の1人であるオネストが、ダンケルク城塞副官が護送してきた囚人(ドージェ)と言葉を交わし、囚人に『何か重大なことを知っているのか』と尋ねた。
囚人は『自分をそっとしておいてほしい』と答えたようだ。
この一件は、囚人が何人と交信するのも禁ずるための用心が、徹底されてなかった事を表している。
入念に点検し、彼が何人とも話せないようにすべし。」
上の手紙の数週間後に、ルヴォワ陸軍大臣はわざわざ首都パリからピネロル監獄までやって来て、警備状況を視察した。
当時はパリからピネロルまで、1週間はかかった。
ルヴォワがパリに戻ると、報告をきいたルイ14世は、ピネロル要塞の総督を解任し、連隊をそっくり転勤させてしまった。
サン・マールだけが留任となった。
この前年の1668年に、ニコラ・フーケの下僕の1人であるラフォレが、脱獄をくわだてた事が明らかになった。
ラフォレは死刑となり、前述のオネストも死体となってピネロル監獄から運び出された。
フーケの許には下僕が2人残されたが、シャンパーニュは4年後に死亡し、ラ・リヴィエールはユスターシュ・ドージェと共に1681年にエグズィル監獄に移された。
1671年にローザン伯爵が、ルイ14世の命令でピネロル監獄に入れられた。
この時サン・マールは、ルヴォワ陸軍大臣に次の提案をした。
「当地では、囚人の下僕になる者を見つけるのは困難です。
そこでダンケルク城塞の副官(ヴォロワ)が連れてきた例の囚人(ユスターシュ・ドージェ)が下僕に向いてそうなので、ローザンに付けてはどうでしょうか。
私個人の下僕たちは、フーケに付き添わせた者が生きて(監獄から)出られない事を知り、ローザンやフーケの下僕になりたがりません。」
このサン・マールの手紙は、ドージェを無害な囚人と見ており、下僕になれそうだと考えていたのを表している。
だがルヴォワ大臣の返事はノーだった。
1674年2月5日に、フーケが妻にあてた手紙では、下僕のシャンパーニュが死に、もう1人のラ・リヴィエールも病気がちだと伝えている。
1675年1月30日にルヴォワ大臣は、サン・マールへの手紙にこう書いた。
「陛下(ルイ14世)は、例の囚人(ドージェ)をフーケの下僕にする許可を出した。
ただし囚人をローザンと同室させてはならぬ。
フーケ以外と同室させてはならぬ。」
なぜユスターシュ・ドージェは、ニコラ・フーケの下僕となってフーケとだけ話すのは許されたのか。
フーケは元々はルイ14世の最側近であり、フランス王家の重要機密をすべて知っていた。
だからフーケは、ドージェ(仮面の男)が何者かも知っていたと考えられる。
そこでルイ14世は、ドージェに話し相手をあてがうつもりで、フーケと接するのは許したのかもしれない。
フーケの下僕のラ・リヴィエールは、ふとした拍子に、ドージェの秘密を知ったらしい。
1680年4月8日にルヴォワ大臣は、サン・マールに手紙でこう命じている。
「陛下は、フーケの死亡のことや、フーケが知りえた重大事の大半はローザンに伝わっており、ラ・リヴィエールもその件で知らぬわけではないとの、お前の意見を聞いた。
そこで、ユスターシュ・ドージェとラ・リヴィエールは何人とも交信させず、ローザンに両名の所在を察知されぬようにすること。」
ニコラ・フーケの下僕だったラ・リヴィエールは、フーケが突然死すると、囚人の身の上となったのである。
ラ・リヴィエールが殺されなかったのは、ドージェの相棒(下僕)としてあてがわれたとしか考えられない。
ユスターシュ・ドージェとラ・リヴィエールは、1681年にサン・マールに連行されて、エグズィル要塞の監獄に移された。
2人はエグズィル監獄でも厳しい監視下に置かれた。
ドージェは、ピネロル監獄にいた頃は年に4~5回の告解聴聞が許されていた。
しかしエグズィルに来てからは年1回に減らされ、さらに回数は減っていった。
1687年1月5日にサン・マールは、ラ・リヴィエールの病死をパリに報告した。
同じ頃にパリから、サン・マールに手紙が来た。
「国王陛下は、お前をサント・マルゲリット島の司令官にふさわしいと決めた。
そこに出立する準備を整えておくこと。」
こうして仮面の男ユスターシュ・ドージェは、サント・マルゲリット島の監獄に移ることになった。
この島には、サン・マールが特別に造らせたという、ドージェの独房が現在も残されている。
1694年3月に、サヴォワ公が率いる軍がピネロル要塞を脅かした。
そこでピネロル監獄にいる囚人たちが、サント・マルゲリット島の監獄に移されることになった。
この時にピネロル監獄にずっと入っていたエルコーレ・マティオリも、サント・マルゲリット島に来た。
マティオリたち囚人は、雪の中を徒歩で6日かけて移動してきたが、すでに病気だったマティオリは島に着いて10日後に死んだ。
ユスターシュ・ドージェはその後、1698年にサン・マールに連行されて、パリのバスティーユ監獄に移された。
この時は、同年6月15日にサンマールに転勤命令があり、「古い囚人(ドージェ)を同行せよ」と命じられたのだった。
(2023年2月5日に作成)