(『鉄・仮・面』ハリー・トンプソン著から抜粋)
フランス国王のルイ14世は、72年も国王の地位にいた男である。
彼は子供の頃は、母アンヌとジュール・マザラン枢機卿の庇護下で成長した。
内気でおとなしく、国王になってからも、宰相を務めるマザランの政治に口を出す事もなかった。
ところが1661年3月にマザランが死去すると、22歳になっていた彼は豹変して、権力志向になった。
マザランの死の翌日、ルイ14世は大臣を召集して、こう述べた。
「余が自ら統治する時が来た。
今からは、ささいな条例も余の許可なくして署名・調印するのを禁じる。」
人々は、それまで傀儡国王だったルイ14世の言う事を、最初は信じなかった。
しかし有力政治家のニコラ・フーケを、ルイが逮捕して排除した時、本気なのだと皆が悟った。
その後にルイ14世は、過去30年に成された議会の決定と、貴族たちへの下賜財産を無効とした。
1665年には財務不正をとがめて、349人の地方貴族を死刑にした。
彼は自らを「皇帝」と称した。
ルイ14世は、信仰の自由を廃止して、20万人のキリスト教・プロテスタント派を弾圧した。
これを実行したのが、残忍なルヴォワ侯爵(陸軍大臣)である。
ルイ14世は、自らの遊興費を得るため、国民に重税を課した。
当時のフランス国民の生活ぶりを、ヴェネチア大使は「奴隷の暮らし」と評している。
ルイ14世は王室の食事時間を変更して、朝食は7時から正午、昼食は17時から、夕食は真夜中にした。
彼は性欲が旺盛で、大勢の女に手を出し、何人の子がいるか誰にも分からなかった。
ルイ14世は、贅沢な生活の舞台として、ヴェルサイユ宮殿を造らせた。
2万人の作業員が10年がかりで完成させたが、工事中に数百人が死んだ。
ルイ14世は、ヴェルサイユ宮殿内のフレスコ画、彫刻、神像の顔を、自分の顔にさせた。
この宮殿から、ルイ14世の命令で軍人たちが送り出されて、その軍隊は広大な土地を侵略して荒廃させた。
以上の行動から明らかだが、ルイ14世には「自分を神格化したい」という空しい望みがあった。
彼のことを偉大で善良な君主と書いている著述は、ことごとくがカネをもらってそう書くよう命じられた者の手による。
『回想録』を著したサン・シモンは、ルイ14世の死後に、「追従はルイ14世の最も好むもので、どんなにわざとらしいものでも喜んで受け入れた。低劣なものだと、かえって彼の機嫌を良くした。」と書いている。
おべっか好きのルイ14世は、もう一方では誰も信用せず、専属の護衛にはフランス人ではなくスイス人を使い、カネで雇ったスパイ網に廷臣たちを見張らせていた。
廷臣たちの手紙は、すべて検閲された。
ルイ14世は、秘事を少数の大臣にしか打ち明けず、大臣たちは世襲のため秘事は身内にとどまった。
その側近の大臣たちも、用済みになれば切り捨てられた。
ルヴォワとその息子バルベジューは、父子の2代にわたって陸軍大臣をしたが、2人そろって変死している。
同じく側近のジャン=バティスト・コルベールが亡くなった時、ルイ14世は葬儀の最中に棺を打ち壊そうとした。
ルイ14世の行動を見ると、常に大きな不安を抱えていたのが分かる。
自信を持てず、自らの正当性を案じていたのが行動に現れている。
この事は、仮面の囚人という異常な存在とも繋がっているのではないか。
ルイ14世の先代国王であるルイ13世は、政治をリシュリュー枢機卿に任せていた。
ルイ13世は、性交や女性に興味がなく、子供が長くできなかった。
彼は1615年にスペイン王女のアンヌと政略結婚したのだが、2人はずっと別居を続けた。
1630年にルイ13世が死にかけた時、子供がいないので、弟のガストンが王位を継ぐのが現実味を帯びた。
リシュリューは、「ガストンが国王になれば、自分は失脚する」と考え、ガストンを殺そうとした事もあった。
1637年12月に、奇妙なことが起きた。
ルイ13世は、リシュリュー、フランソワ・ド・カヴォワ(仮面の囚人の父)と旅行に出て、その数週間後に「自分は聖母マリアに、世継ぎの誕生を委ねた」と公表したのである。
そして9ヵ月後に、王妃アンヌは息子(後のルイ14世)を産んだ。
アンヌの懐妊は、王室の発表によると次の流れだった。
ある時、外出したルイ13世は、嵐になったのでルーヴル宮殿に避難した。
その時ちょうどルーヴル宮殿には、別居を続けている王妃アンヌがいた。
久ぶりに再会した2人は、一夜を共にして息子を授かったという。
生まれた子は「ルイ・デュウドネ(神の贈り物)」と名付けられたが、これは父親の分からない子によく付けられた名でもあった。
その後、1640年にアンヌは次男フィリップを産み、リシュリュー枢機卿は1642年に死去した。
1643年にルイ13世が死去した。
それでルイ・デュウドネが5歳で王位を継いで、ルイ14世になり、弟のフィリップはオルレアン公を継いだ。
まだ幼少のルイ14世は、母アンヌとマザラン枢機卿の指導を受けた。
アンヌとマザランは、愛人関係になっていた。
ルイ14世は成長するにつれて、父と似ても似つかないと明らかになった。
健康で食欲旺盛、運動に万能で、すばらしい体格をしていた。
父と異なり、子種にも恵まれていた。
ルイ14世は、なぜか父であるルイ13世について話したがらず、母とマザランに傾倒した。
そしてマザランが死ぬと、前述のとおり秘密主義の暴君に変身した。
いったい何が、彼をそこまで変えたのだろうか。
一説によると、母アンヌも元は遊び好きの女だったのだが、2人の子を産んだ後は豹変して、神への祈りに没頭するようになったという。
ルイ14世は、1715年9月1日に死去したが、それを知ったとき人々は「圧政の時代が終わる」と喜びに湧きかえった。
ルイ14世の遺体が墓地へ運ばれる時、パリ市民は沿道に並んで罵声をあびせ、泥や石を棺に投げつけた。
仮面の囚人ユスターシュ・ドージェは、国王ルイ14世と顔が似ているため、仮面を付けられたと考えられる。
しかし、なぜこの2人は顔が似ていたのだろうか。
それにルイ14世は残酷な男で、処刑した者は沢山いたのに、なぜ仮面の囚人は生かしておいたのか。
仮面の囚人は、独房内とはいえ贅沢な暮らしを許され、監獄で別格の扱いを受けていたが、なぜなのか。
ユスターシュ・ドージェ(ユスターシュ・ド・カヴォワ)は、4歳の時に父フランソワを失い、17歳の時に2人の兄を失った。
それから弟のルイがカヴォワ家を継ぐまでの10年間、ユスターシュは実質的なカヴォワ家の当主だった。
だから彼は、カヴォワ家の文書を目にする機会があったはずだ。
ユスターシュは、カヴォワ家の重大な秘密を知ったのだ。
それで1669年に逮捕され、裁判なしで牢獄に入れられ、仮面を被せられて誰とも会ったり話したりする事を禁じられた。
カヴォワ家の秘密は、前述したルイ14世の出生の怪しさと関係があるのではないか?
長いこと王妃アンヌは世継ぎを欲しがっており、権力を維持したい宰相のリシュリューが手を貸して、代理の父を用意し、アンヌに子を産ませたのではないか?
代理の父は、若くて健康で有能で、忠実な男でなければならない。
決して王位を要求せず、子種があるとはっきりしているのも条件だろう。
これに該当する者が、リシュリューの右腕で、リシュリュー直属の銃士隊の隊長である、フランソワ・ド・カヴォワだったのだ。
こうして1637年12月に、ルイ13世とリシュリューに従ってフランソワは旅行し、アンヌは身ごもった。
この時、フランソワとその妻マリーは、すでに7人の子供がいた。
フランソワに子種がある事は、完全に証明されていた。
そしてフランソワもマリーも、ルイ13世とアンヌ王妃に親しかった。
ルイ13世は、代理の父を用いることについて、あまり気にしなかったのだろう。
「聖母マリアに委ねる」と発言し、父が分からない子に使う「デュウドネ」を子に付けたくらいだから。
だが、アンヌはフランス王家と血縁がないから、全く違う血脈が王位に就くことになる。
後ろめたさはあっただろうが、彼らは同じ方法で次男のフィリップも産ませた。
代理父となったフランソワは、1641年に戦死した。
上記の王家の秘事を、ユスターシュは知ったのだ。
そしてカネに困った1669年に、これをネタにルイ14世をゆすろうとした。
ユスターシュは親友のローザンを仲間に誘ったが、ローザンはルイ14世に注進した。
ルイ14世はそれまで、異母兄のユスターシュに寛大な処置を続けてきたが、もう野放しにしておけないと思ったのだ。
その後、何かの動きがあって、ユスターシュはダンケルクに行き国外へ逃亡しようとしたが、そこで逮捕された。
ユスターシュの逮捕は、すでに彼が軍人ではなくなっており、カヴォワ家からも勘当状態だったので、誰も気にしなかった。
ルイ14世は、ユスターシュの弟ルイがバスティーユ監獄から出てくると、重用して爵位も与えたが、口封じの意味もあっただろう。
だがローザンは、ルイ14世から秘密を知ったと思われて、何の罪もないのにユスターシュもいるピネロル監獄に入れられてしまった。
ルイ14世は、自分とよく似た顔を持ち、「自分は国王の兄だ」と主張するかもしれないユスターシュに対し、監獄長に命令して仮面を付けさせ、誰とも話せないように牢獄でも隔離した。
ユスターシュは監獄長のサン・マールに、「国王は私の命をお望みなのか?」と質問している。
サン・マールは「いいえ。あなたはただ導かれるままになさればよいのです」と答えたが、ルイ14世に殺す気がないと知ったユスターシュは、そこからは人任せの贅沢な独房暮らしを受け入れて生きることにしたのだろう。
(2023年2月8日に作成)