(『鉄・仮・面』ハリー・トンプソン著から抜粋)
ルイ14世の命令で牢獄に入れられ、死ぬまで仮面をかぶって過ごした囚人。
この「仮面の囚人」の名は「ユスターシュ・ドージェ」といったが、当時のフランス史を見ても活動の跡がない。
そこで、少し考えてみた。
仮面の囚人を担当したルヴォワ陸軍大臣は、ドージェのことをいつも「Dauger」と書いているが、一度だけ「d'Augers」と書いていた。
仮面の囚人を監視し続けたサン・マールも、ドージェが逮捕されてピネロル監獄に入った時に、一度だけ「d'Auger」と書いている。
そこで、「Augers(オージェ)」という名の者が、ユスターシュ・ドージェの逮捕で重要な役割を果たしたと思われるローザン伯爵の友人にいたかを調べてみた。
するとローザンの親友に、1637年生まれの「ユスターシュ・ド・カヴォワ」がいた。
貴族のカヴォワ家は、稀に名字として「オージェ」を用いていた。
ユスターシュ・ド・カヴォワは、1668年に当時は30歳だったが、この年から名が聞かれなくなった。
仮面の男が逮捕された年は1669年である。
以上の事を考えると、ユスターシュ・ド・カヴォワが1669年に逮捕されて、「ユスターシュ・ドージェ」の名で投獄されたと思われる。
オージェ家(カヴォワ家)は、フランス最古の貴族の1つで、1600年頃から復活していた。
当時にオージェ家の当主だったフランソワは、1634年に(フランスの宰相をつとめる)リシュリュー枢機卿に付く銃士隊長となり、ラングドック地方の出身のマリー・ド・セリニャンと結婚した。
1640年にフランソワは、国王付きの若い銃士ダルタニャンとケンカをした。
この時ダルタニャンの助太刀に駆け付けたのが、アトス、ポルトス、アラミスで、有名な三銃士の友情の始まりだった。
フランソワ・ド・カヴォワは1641年9月に、バポームの攻囲戦で戦死した。
フランソワの息子たちは、長男と次男は軍人になって戦死し、三男のユスターシュも軍人になった。
ユスターシュの少年時代の友人には、若き国王ルイ14世、マザラン枢機卿の甥のフィリップ・マンシーニ、ローザン、シラノ・ド・ベルジュラックがいた。
ニコラ・フーケは、ユスターシュの親戚である。
その一方で、カヴォワ家の宿敵には後にルイ14世の愛人になるモンテスパン夫人、ルイ14世の友人で陸軍大臣になるルヴォワ侯爵がいた。
ユスターシュ・ド・カヴォワは、1652年に近衛連隊に入隊したが、1659年に悪魔崇拝の黒ミサに参加して逮捕された。
この黒ミサは、同性愛の要素もあり、ユスターシュの友人であるヴィヴォンヌ伯爵(モンテスパン夫人の兄)、フィリップ・マンシーニ、ルイ14世の教戒師のカミユまで加わっていた。
だがユスターシュは、ルイ14世によって無罪となり、それからも昇進を続けた。
遊び人気質のユスターシュは1664年の初め頃に、何かをしでかしたらしく、母マリーに勘当された。
そしてカヴォワ家は、ユスターシュの弟のルイが継ぐことになった。
弟ルイは、ルイ14世の親友となり、宮内長官に就いた。
1665年6月に、ユスターシュは酒に酔い、サン・ジェルマン王宮で小姓を剣で殺してしまった。
普通なら重い処罰をうけるが、軍位を剥奪されるだけだった。
その後のユスターシュは、弟ルイの家に住むようになったが、1668年に世間から姿を消した。
1668年になると、ユスターシュは借金地獄に落ちたようだ。
というのは、彼を養っていたルイが牢獄に入ったからである。
1668年の後半に、ルイ・ド・カヴォワとルヴォワ侯爵は、同時に人妻のシドニア・ド・クルセールに恋をした。
ある日ルイは、シドニアの夫と決闘をして、2人とも逮捕された。
この時ルヴォワは死刑を進言したが、ルイ14世は殺さずにバスティーユ監獄に入れた。
ルイは数年をバスティーユ監獄ですごし、釈放後はまたルイ14世の寵臣になった。
ルイ14世はルイを好いていたので、バスティーユにいる間も愛人とすごせるようにし、釈放後はすぐに侯爵を授けた。
弟ルイが監獄入りすると、ユスターシュは生活に行き詰ったようだ。
そこでユスターシュは、ルイ14世からカネを引き出そうとして、親友ローザンの手を借りようとしたが、ローザンに裏切られたのではないだろうか?
ユスターシュ・ド・カヴォワこそ、仮面の男に間違いない。
年齢も、名前も、宗教も国籍も、仮面の男と一致する。
さらに消息不明になった時期が、仮面の男が入獄した1669年と合っている。
ユスターシュも仮面の男も、長身で立派な体格だった。
ユスターシュの肖像画は残っていないが、弟ルイのは残っており、ルイ14世にそっくりな顔をしている。
実際に当時、「ルイとルイ14世は、兄弟のように似ている」と言われていた。
ユスターシュも、ルイ14世と似ていただろう。
さらにユスターシュは、毒薬使いでもあった。
その事は、次に書く事実から明らかだ。
1668年に、ブランヴィリエ侯爵夫人の兄2人が苦悶死し、彼女の夫も同じ症状で死んだ。
その後、彼女の情人で共犯者でもある男が、自首した。
男の自白で、ブランヴィリエ侯爵夫人が家族を毒薬で皆殺しにした事と、病院に慰問に行った時にも重病患者に毒薬を飲ませていた事が分かった。
ことがバレるとブランヴィリエ侯爵夫人は行方をくらませた。
1670年には、オルレアン公の妻アンリエッタも、謎の苦悶死をした。
アンリエッタは、国王ルイ14世の従妹だが、ルイ14世の愛人になっていた。
また彼女は、イギリス王・チャールズ2世の妹だが、チャールズ2世の愛人にもなっていた。
アンリエッタの死は毒殺の可能性があり、警察が動いた。
実はこの少し前に、警察総代理官(現在の警視総監)のドブレーも、毒殺されていた。
新しく警察総代理官に就いたラ・レーニイは、毒薬を提供する組織がいると見て、捜査を始めた。
当時のパリの上流階級では、毒殺が流行していた。
ラ・レーニイをノートルダム寺院の神父が訪れて、「毒殺を告白する者が、日に日に増えている」と警告していた。
1676年になって、ようやくブランヴィリエ侯爵夫人が見つかり逮捕された。
しかし彼女は何も白状せずに死刑になった。
1679年に、ボス夫人、ヴィグリュ夫人という、毒薬使いが逮捕された。
この2人の自白により、暗殺や黒魔術が流行していて、それを行う者たちは赤ん坊をさらってきては悪魔に捧げる儀式をしていると分かった。
ラ・レーニイが、ルイ14世とルヴォワ陸軍大臣にこの事を報告した結果、「火刑裁判所」が召集され、第1回目が1679年4月10日に行われた。
この裁判で、悪魔崇拝の儀式に上流階級の女性がたくさん参加していると判明し、王室の子女まで参加していた。
ルイ14世の愛人であるモンテスパン夫人の侍女で、同じようにルイ14世が手を出して、ルイ14世の子を産んでいたオーイエも、悪魔崇拝の儀式に参加していた。
裁判では3人の黒魔術師が、顧客としてモンテスパン夫人の名を挙げた。
モンテスパン夫人は、1667年にルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールからルイ14世の寵愛を奪った女で、それ以来ルイ14世の愛人のトップの座にいた。
黒魔術師の証言によると、1667年~68年にモンテスパン夫人は黒ミサに参加して、ルイ14世の寵愛を受けるルイーズを呪った。
彼女は祭壇の上に裸で横たわり、サタンに身を捧げた。
ルイ14世に媚薬を飲ませることに成功していた事も、証言された。
モンテスパン夫人は、ルイ14世の他の愛人たちを殺すため、毒薬を買っていた。
報告を受けたルイ14世は、ルイーズのために悪魔祓いの儀式をした。
そしてルイ14世は、愛人のモンテスパン夫人を罪人にしないため、火刑裁判所を閉鎖させた。
結局、告発された上流階級の者は全員が無罪放免になり、下で働いた小者だけが有罪になった。
ルイ14世は、「裁判の記録を全て処分せよ」と命じた。
だがラ・レーニイは怒りのあまり従わず、密かに記録を警察本部に隠した。
私たちが今日、この事件を知ることが出来るのは、ラ・レーニイのおかげである。
(※ラ・レーニイは役人の鑑といえる。これぞ正しい役人魂である。)
この火刑裁判では、バローという黒魔術師が拷問にたえかねて、毒薬の売人の名を白状した。
売人の名は、「ドージェ」だった。
バローは拷問の末に処刑された。
裁判では神父のギボールも自白したが、その内容は人々を驚愕させた。
オルレアン公の妻アンリエッタは、なんと王宮内で黒ミサをしたという。
彼女もモンテスパン夫人と同様に、祭壇の上に裸で横になり、サタンに身を捧げた。
アンリエッタはそこで、夫フィリップの死を祈願した。
フィリップは、ルイ14世の弟である。
この事を知った時、ルイ14世は狼狽しただろう。
なぜなら、アンリエッタと自分が不倫をしているのは、公然のものだったからだ。
ギボール神父の告白によると、彼に宮殿に行って黒ミサを行うよう命じた男は、王宮に出入りしており、毒薬や媚薬の売人だった。
その男は、どうやらユスターシュ・ド・カヴォワのようだ。
実は、先に出てきたブランヴィリエ侯爵夫人は、カヴォワ家の縁戚である。
彼女は「従兄を自分の毒殺計画に引き込んだ」と語っており、「その男と肉体関係を持った」とも語っていた。
ブランヴィリエ侯爵夫人が、連続毒殺がバレて姿をくらました事も、1669年にユスターシュがカネに困った一因かもしれない。
(2023年2月7日に作成)