(物語イランの歴史、誰にでもわかる中東、から抜粋)
1901年に、イランの石油利権が、イギリス人のウィリアム・ノックス・ダースィーに与えられた。
ダースィーが試掘をした結果、1908年に南部のフーゼスタン州で、『イラン初の油田』が発見された。
そして、09年には『アングロ・ペルシアン石油会社』が設立されて、ダースィーの油田利権を引き継いだ。
(アングロ・ペルシアン石油は、現在はブリティッシュ・ペトロリウム(BP)になっている)
1913年にイギリス海軍が、軍船の燃料を石炭から石油に替えると、イラン油田の重要性は高まった。
イギリス政府は14年に、チャーチル海相の要請をうけて、アングロ・ペルシアン石油の株51%を取得し、翌年にはアーバーダーンに新たな製油所を完成させた。
しかし、イランには年間純益の16%が支払われるのみだった。
油田の発見は、イランの重要性を高めた。
すでにイギリスとロシアは、1907年に『英露協商』を結び、
「イラン北部はロシア、イラン南部はイギリスの勢力圏とする。中央部は中立地帯とする」と定めていた。
第一次世界大戦が始まると、オスマン帝国軍がイランに侵入し、ドイツも中央部で暗躍した。
イランは「中立宣言」をしたが、イギリスとロシアはイランに軍隊を侵入させた。
1917年10月にボルシェヴィキによるロシア革命が成立すると、ロシアの状況は一変した。
新生国のソ連は、『カスピ海の漁業権を除くいっさいの利権の放棄』を表明した。
第一次大戦が終わると、イランの主権はさらに蹂躙された。
1920年にモハンマド・ヘヤバーニーが、アゼルバイジャンで自治政府の樹立を宣言した。
同年にギーラーンでは、ソ連の支援をうけたクーチェク・ハーンが、イラン・ソヴィエト政権を樹立した。
イラン北東部のギーラーン州では、ロシア帝国に対するパルチザンが盛んだった。
ボルシェヴィキはこれを支援し、1920年6月に『ギーラーン共和国』が誕生したのである。
この共和国は、穏健派と極左派に分裂し、ソ連がイランとの関係改善を求めて支援をしなくなった事もあって、すぐに崩壊した。
さらにイギリスも、石油獲得のために、フーゼスタン州のシャイフ・ハザルを支援した。
イギリスは、英露協商で決められていた中立地帯にも、軍隊を駐留させた。
(2014年1月19日に作成)