レザー・ハーンは1921年にクーデターを起こし、パフラヴィー朝を樹立する
背後にはイギリスがいた

(物語イランの歴史、誰にでもわかる中東、から抜粋)

ロシア革命(1917年)が起きると、イギリスは「ロシアの影響が衰えている今がチャンスだ」と考えた。

1919年8月9日に調印された『イギリス・イラン条約』は、イギリスの策謀の成果である。

この条約は、「イランの費用による、イギリスからの政治・軍事援助の受け入れ」「イギリスからの借款による鉄道・道路の建設」を強制するものだった。

危険性を見抜いたイラン国会は、イギリスの強い圧力にも関わらず、条約を批准しなかった。

さらに、反イギリス運動が高揚し、アーバーダンでは石油労働者が初めてストライキを行った。

そんな中、1921年2月に、コサック旅団の長だったレザー・ハーンは、クーデターを起こした。

レザー・ハーンは2500の兵を率いて、2月21日にテヘランを占領した。

このクーデターの背後には、イギリスがいた。

イギリスは、1919年にイギリスとイランが結んだ協定(条約)を守れる人物として、レザー・ハーンを見込んだのである。

クーデターの数日後に『イラン・ソ連の条約』が結ばれて、レザー・ハーンは10月にギーラーン共和国に進軍し、共和国を滅ぼした。

(ギーラーン共和国はソ連の後押しをうけていたが、ソ連はイランとの関係を重視し、共和国を見捨てた)

レザー・ハーンは、アフマド国王に迫って、軍の最高司令官となった。

そして彼に忠実な軍隊を作り上げ、各地の遊牧部族の反乱を鎮定した。

彼は1923年10月に首相となり、25年12月26日には国王の座に上った。

レザー・ハーンは、軍隊をバックにして、1925年にカージャール朝を廃したのである。

そして、自らの『パフラヴィー朝』を創始した。

独裁的なパフラヴィー朝は、イラン革命が起きる1979年まで続いていく。

(2014年1月19日に作成)


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