イギリスとソ連が占領すると、イランは搾取され疲弊する
英露米の3国は、イランの石油を狙う

(物語イランの歴史、誰にでもわかる中東、から抜粋)

イギリスとソ連の連合軍がイランを占領すると、物資は連合軍に供給されて、国民は慢性的な物不足になった。

経済は衰退し、貧困は広汎な階層に蔓延した。

イギリスとソ連は、イランの利権をめぐって鍔迫り合いをした。

その影響で多くの党が出現し、とりわけ1941年に結党した『ツデー党(イラン共産党)』が勢力を伸ばした。

ツデー党に対抗しうる党は、イギリスの支援をうけた『エラディ・エ・メリ党』だけだった。

1943年になると、イギリス石油資本シェルおよびアメリカ系2社(スタンダード・バキュームとシンクレア)が、石油利権を要求した。

44年にはソ連が、イラン北部の油田の独占を要求した。

こうした流れに対し、イラン国民は激しく反発した。

国会では44年12月に、モハンマド・モサッデクが提出した、「外国の占領下にある限り、いかなる石油利権の交渉も禁止する。議会による認可なしには、外国に石油利権を付与しない。」との法律を可決した。

アメリカとイランの交渉は、第二次世界大戦が始まるまでは希薄であった。

1883年に、アメリカとイランは正式に外交をスタートし、両国に大使館を設置したが、アメリカの影響はごく限られた。

当時のアメリカは、イギリスの介入政策に懐疑的だった。

1919年にイランとイギリスが結んだ石油協定を、公然と批判した。

1921年にレザー・ハーンが、イギリスの支援でクーデターを成功させた時にも、アメリカは公式に非難している。

こうした姿勢は、イラン人の間に親米意識を生んだ。

1941年に、イギリスとソ連がイランに侵攻して占領すると、アメリカは「連合国への協力」を名目にして、イラン介入を決めた。

アメリカは、サウジアラビアにおける石油利権を守るために、隣国イランにも介入する事にしたのである。

1943年11月に、イランの独立を盛り込んだ『テヘラン宣言』が出されると、イラン人はさらに親米になった。

ところが、1943年にはアメリカ企業のスタンダード・ヴァキューム(現在のモービル)が、イランの石油利権を要求した。

44年には国務省の石油顧問として、元大統領のハーバート・フーヴァーと、カーティスを、イラン政府に採用させた。

これに対抗して、ソ連も44年9月にイラン北部の油田を要求した。

この時期のイラン石油利権における米ソの対立が、冷戦の起源の1つなのは間違いない。

国会議員のモハンマド・モサッデクは、ソヘイリー首相(在任1942年)とサーエド首相(43年)について、「アメリカの石油利権の要求を幇助した」と糾弾した。

そうして44年12月に、上記の法律を成立させた。

(2014年1月20日に作成)


『イラン史 パフラヴィー朝』 目次に戻る

『イラン史 トップページ』に行く

『世界史の勉強 トップページ』に行く

『サイトのトップページ』に行く