戦後もソ連は撤兵をせず、石油利権などを認めさせる
怒ったイランは、約束を反故にする

(物語イランの歴史、誰にでもわかる中東、から抜粋)

第二次大戦の終結が近づくと、英国・米国・ソ連は、イランの戦後処理も話し合った。

英ソのイラン占領軍(途中からはアメリカも参加)は、1945年の2月~12月にかけて5回の会談を行い、「46年3月2日までに(6ヶ月以内に)、イランから軍隊を撤退させること」で合意した。

そうした中、ソ連の後押しでイランの隣に、1945年12月には『アゼルバイジャン共和国』が、46年2月には『クルディスタン人民共和国』が誕生した。

そしてソ連は、撤退の期限がきてもイランから撤兵をせず、利権を要求した。

イラン首相のアフマド・ガヴァームは、この問題をアメリカに頼る事で解決しようとした。

アメリカはガヴァームを支持し、46年2月と3月に撤兵の不履行を公開状で批判した。

結局のところ、ソ連はイラン政府に、次の要求を認めさせた。

①北部イランの石油独占権を持つ、イランとソ連の合弁石油会社の設立(ソ連が株の51%、イランが49%を所有する)

②アゼルバイジャン共和国との交渉

③ツデー党(イラン共産党)に、3閣僚のポストを渡す

これをイラン政府が認めたため、46年5月にソ連軍は撤兵をした。

しかしその後、イラン政府はツデー党を弾圧し、1946年12月にはアゼルバイジャン共和国に軍を進めて、共和国を滅ぼした。

その後に、クルディスタン人民共和国も崩壊した。

また、ソ連との合弁石油会社も、高まる反ソ感情の中で47年10月に議会は否決した。

ソ連はこれを見ても、軍隊を再び出す事はしなかった。

ガヴァーム首相は、西側諸国から「賢い政治家」と評された。

こうした状況の中、国王モハンマドは対米従属を明確にし、軍事援助を拡大させていった。

このアメリカの介入に対しては、「アメリカの軍事援助は、国王の独裁を招く。なぜアメリカの富豪の利益のために、貧しいイランが武装しなければならないのか」との国民の声が高まった。

イランの石油は、徐々に石油メジャーの支配下に入りつつあった。

1949年2月に、イラン国王の暗殺未遂事件が起きた。

5発中2発の弾が命中したが、奇跡的に命は助かった。

この事件を契機に、ツデー党は非合法化された。

(2014年1月20日に作成)


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