(物語イランの歴史、誰にでもわかる中東、から抜粋)
第二次大戦中の英ソの占領により、イランの経済は破綻した。
戦後になって外国軍が撤退すると、イランの官僚や知識人たちは経済再生のための解決策を模索し、「唯一の方法は、石油の国有化である」との結論に達した。
イラン人たちは、ソ連が「北部の石油利権を渡せ」と要求してきた事で、石油の重要性を再認識した。
イランはこれまで、非常に少ない石油収入しか得ていなかった。
1949年には、ベネズエラがイランの2倍の採掘量で2億ドルを石油会社から得ていたのに対し、イランは3200万ドルしか得ていなかった。
第16議会(1950年2月~51年5月の国会)の最重要課題は、石油協定の改定となった。
国会は50年に、モサッデクを委員長とする「石油委員会」を設置した。
だが石油協定の批准を急ぐ国王モハンマド・パフラヴィーは、軍の司令長官アリー・ラズマーラーを首相に任命した。
そしてラズマーラーは、イギリスに柔軟な姿勢を見せた。
51年2月に石油委員会は、「石油産業の国有化」を首相に提言した。
だがラズマーラーは、これを拒否した。
ラズマーラーの態度をイランへの背信と見た極右イスラム組織は、3月7日に彼を暗殺した。
石油国有化の声はさらに高揚し、「国有化の法案」は1951年3月15日に、上下両院の満場一致で通過した。
4月29日には、国有化運動の中心にいたモサッデクが首相に選出された。
そして5月1日に、アングロ・イラニアン石油の国有化が宣言された。
国有化の原動力となったのは、『国民戦線』という政党の連合体であった。
これは、1949年10月にモサッデクの支持者を中心に結成され、「公明な選挙」「戒厳令の解除」「言論の自由」を訴えた。
国民戦線は、バーザール商人と中産階級のインテリが主な支持基盤だった。
(2014年1月20日に作成)