ファトフ・アリー国王の時代
ロシアとイギリスの介入に悩まされ、
1813年には不平等条約を結ばされる

(物語イランの歴史、誰でもにわかる中東、から抜粋)

イランが外国に領土を大きく割譲したのは、カージャール朝の第2代国王のファトフ・アリー(1797~1834年)の時代である。

イギリスは1800年に、東インド会社のジョン・マルコム卿をイランに送り、軍事と通商の協定を結んだ。

これは、フランスの進出を恐れたためであり、「フランスの使節を受け入れないこと」「フランス軍を拒否すること」を、カージャール朝に約束させた。

他方ロシアは、南方への拡張を画策し、1801年に「グルジアの一部はロシア領である」と宣言して、イランに軍事侵攻した。

ロシアは04年に、グルジア2州の併合を強行した。

当時はイギリスとロシアは同盟を結んでいたため、イランはフランスに支援を求めた。

フランスは支援をしたが、1807年に仏露の間で『チルジットの和約』が成立し、支援は停止した。

そこでイランは、イギリスに接近し、1814年に『テヘラン条約』を結んで、「イランとロシアが戦争をしたら、イギリスはイランを支援する」と決めた。

1812年にナポレオンが再びロシアに進軍すると、イギリスはロシアに接近し、「イランと和平しなさい」と仲介した。

その結果で締結されたのが、1813年の『ゴレスターン条約』である。

この条約では、イランはグルジア全域などの8州をロシアに割譲し、5%の関税なども決まった。

この条約は、イランとヨーロッパ諸国との、不平等条約のスタートであった。

イギリスはこの頃になると、植民地にしているインドを防衛するために、他の国がイランなど中東に進出しない事を望んでいた。

ロシアのイラン侵攻を、イランで公然と非難したのは、イスラーム聖職者たちだった。

彼らはロシアへの「聖戦(ジハード)」を唱え、国王もそれを支持した。

カージャール朝の軍隊は、1826~28年にカフカスに進攻したが、ロシア軍に大敗北を喫した。

その結果、『トルコマンチャーイ条約』が締結された。

トルコマンチャーイ条約では、さらにカフカスの地がロシアに割譲され(アルメニアのエリバン、ナヒチェバニなどである)、莫大な賠償金が支払われる事になった。

ロシアは、イランでの治外法権も得た。

さらに、イランはカスピ海に軍艦を航行させるのが禁止された。

ロシアとの2度の戦争における敗北は、イラン人に屈辱感を与え、反ロシア感情が燃え上がった。

こうした中、皇太子のアッバース・ミールザーは、銃器工場を設立するなど強兵政策を推進した。

ロシアは、イランの北部領土を奪った見返りに、イランが東部で拡張するのを黙認した。

そのためカージャール朝は、東部にあるアフガニスタンに領土的野心を持つようになった。

アッバース・ミールザーは、1833年に東部で遊牧部族の反乱を平定すると、へラートを併合しようとした。

イギリスは、イランによるヘラート支配を望まず、緊張が高まった。

同年中にミルーザーが急逝し、イランが軍を撤退させたので、イギリスとの戦争は回避された。

(2014年1月17日に作成)


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