(『物語イランの歴史』から抜粋)
イラン政府が石油の国有化を決めると、アングロ・イラニアン(イギリスの石油会社)は石油メジャーと協力をして、イラン石油を国際市場から排除した。
石油メジャーたちが恐れたのは、石油国有化が中東全体に広がる事だった。
石油メジャーは、イラン以外でも石油利権を握り、大儲けをしていた。
1952年7月に国際司法裁判所は、イギリスとイランの争いに介入しない事を決めた。
こうなると、国際市場から締め出されているイラン原油は、買い付けが安くできるので魅力的だった。
そこで日本の出光石油は、買い付けを決めた。
当時の出光は、買い付けをアメリカで行っていて、60%はロスアンゼルス、40%はサンフランシスコからの購入だった。
当時の日本は、アメリカの占領下だが、アメリカ以外からの購入を模索していた。
出光とイランの交渉は、53年2月15日に合意をみた。
合意内容は、「両者は9年間の契約を結び、その間はできるだけ多くのイラン原油を買うようにする」というものだ。
出光が所有する石油タンカー「日章丸」は、3月23日に日本を出発し、4月10日にイランに到着した。
当時の世界の石油は、ソ連とアメリカで採掘されるものを除いては、石油メジャーの支配下にあった。
そのため、日章丸がイランに着くと、世界に大きな衝撃が走った。
イランは日章丸を大歓迎し、日本でも「アメリカからの独立を象徴する出来事」として歓迎するムードが強かった。
イギリスはこの買い付けに対し、「イランの石油は、アングロ・イラニアン(イギリスの石油会社)のものである」として、東京地裁に提訴した。
5月27日に、東京地裁はこれを却下した。
判決では、「イランとアングロ・イラニアンの契約は、私的な契約であり、イランの民法に従うべきである。イランによる石油国有化は、正当である。」と断じた。
アングロ・イラニアンは、東京地裁に上訴したが、54年10月29日に突然に提訴を取り下げた。
それは、53年8月にモサッデク政権が英米主導のクーデターで倒され、コンソーシアム石油協定が結ばれたからだった。
(2014年2月12日に作成)