ケネディ政権は、イランの改革派を支援するが、
国王独裁が崩れそうになると一転して支援を打ち切る

(『物語イランの歴史』から抜粋)

アメリカで1960年にケネディ政権が誕生すると、同政権はイランの腐敗した国政を強く批判した。

イラン国王は、かねてから親交のあるニクソンが大統領に当選する事を期待していたが、ニクソンはケネディに敗れた。

ケネディは、共産主義に対抗する有効な手段としては、「発展途上国の社会改革(特に農地改革)をすることだ」と考えていた。

そして、イラン国王に批判的だったアリー・アミーニーを、首相にするように圧力をかけた。

国王は受諾を余儀なくされ、1961年5月にアミーニーは首相になった。

アリ・アミーニーは、農業相に改革派のハサン・アルサンジャーニーを起用し、農地改革(農地を小作人に与えること)は62年8月に施行された。

国王は不快感を募らせ、SAVAKを用いて弾圧をくり返し、地主層と結ぼうとした。

62年7月21日には、軍隊がテヘラン大学の学生集会を弾圧した。

アメリカは、イランで国王打倒の空気が盛り上がり始めると、アミーニー支援を放棄した。

軍事費の削減を求めていたアミーニーは、62年7月末に辞任した。

(つまりアメリカは、共産主義の拡大を恐れていたが、それ以上に恐れていたのはイランでの石油利権や軍事利権を失うことだったのです)

(2014年2月13日に作成)


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