(物語イランの歴史、誰にでもわかる中東、から抜粋)
アミーニー首相を排除したモハンマド国王は、進歩的な姿勢を示して独裁体制への批判をかわそうとし、6項目からなる『白色革命』を国民投票に委ねた。
これは、1963年1月26日の投票日に、政府の不正な介入により、90%の賛成で承認された。
白色革命の内容は、
①農耕地の分配 ②森林の国有化 ③婦人の参政権 などである。
しかしこの革命は、機能しなかった。
農地改革では、わずかな効果しか上がらず、イランの農村には1500万人が存在したが、その60%は土地を持たないままだった。
農業生産は、1960年代以降はまったく停滞した。
国王の専制的な改革に最も抵抗したのは、急速に頭角を現わしてきたアーヤットラー・ホメイニーであった。
ホメイニーは、
「憲法に拠れば、国王は国民投票をする権限はない。
イスラム教では、国民的な承認には何の有効性もない。
国民には、白色革命の詳細も知らされていない。」
と主張した。
ホメイニーは、1963年6月3日に演説して、イスラム教の聖職者に対する国王からの抑圧を糾弾し、「イスラエルへの寛容な姿勢は、イスラエルによるイラン支配をもたらす」と主張した。
イランは、モハンマド王政の時代には、イスラエルと親密であった。
イランは中東諸国の中で最もイスラエルに友好的で、1950年にイスラエルを承認し、イスラエルから兵器を購入したりもしていた。
63年6月5日には、民衆の暴動がイラン全土で発生した。
同日にホメイニーは逮捕されて、政府による鎮圧で数千人の犠牲者が出た。
この弾圧劇は、多くの国民に「反国王」「反アメリカ」を植え付け、「白色革命は、アメリカの圧力で行われた」との意識を生んた。
1964年10月に、『アメリカの軍事顧問に治外法権を付与し、2億ドルの軍事借款をする』との法案が提出されると、ホメイニー支持はさらに拡大した。
1953年のCIAの介入による軍事クーデターと、63年の民衆蜂起への弾圧。
これが反米感情を形成し、後のイラン革命に繋がったのは疑う余地がない。
国王体制は、次第にアメリカと同体と見なされるようになった。
(2014年2月13日に作成)