(『物語イランの歴史』から抜粋)
1960~70年代に、アメリカのイランへの進出はさらに加速した。
軍需・電気・電信などの産業に参加し、それは賄賂や莫大な手数料を通じて展開された。
アメリカ人の軍事顧問が大勢でイランに駐留し、それに伴ってキャバレー、ナイトクラブ、ディスコ、ポルノ映画など、敬虔なムスリムが眉をひそめたくなるアメリカ文化が流入してきた。
1977年には、イランの国家予算の40%が軍事費に投入されるまでになった。
反米感情は、さらに増幅した。
イラン王政はこの頃になると、「ペルシャ湾岸地域における警察」を自任するほど、アメリカの利益の代弁者になっていた。
イラン人たちは、流入してくるアメリカの退廃的な文化を、苦々しく思っていた。
79年にイラン革命が成功すると、王政支持派だった富裕層はアメリカに亡命した。
(『誰にでもわかる中東』から抜粋)
1970年代に入ると、都市への人口集中が始まった。
1956年には、都市人口と農村人口の比率は29対71であった。
それが76年には、43対53になった。
都市に流れた人々は、貧しい生活を強いられた。
1970年代になると、イランにもオイル・ブームが到来した。
金回りが良くなったので、政府は巨大なプロジェクトを次々と計画した。
「24基の原発をつくる」「6車線のハイウェイをつくる」「テヘランに大地下鉄道網をつくる」などである。
軍事支出も急増し、国防費は1970年には8.5億ドルだったが、77年には12倍の94億ドルとなった。
こうした政策により、イランにインフレの大火が押し寄せた。
物不足やインフラの混乱が続いた。
76年以降は停電が急増し、工場生産は43%も減少した。
この状況の中で、1979年に『イラン革命』は起きた。
この革命は、起こるべくして起きたのである。
(2014年2月13日に作成)