(『物語イランの歴史』から抜粋)
パフラヴィー朝の時代には、欧米化・近代化・産業化が進み、人々の階層化が進行した。
そして、イスラムの伝統文化が喪失した。
王朝の後期には、「ペルシャ湾岸地域における警察」を自任するほど、アメリカの利益の代弁者になっていた。
イラン人たちは、流入してくるアメリカの退廃的な文化を、苦々しく思っていた。
宗教指導者のホメイニーは、「欧米モデルによる近代化や、アメリカやイスラエルとの親密な関係は、イスラム教やイラン人の独立の脅威になっている」と判断した。
ホメイニーは、1964年にトルコに追放されたが、海外に移ってもイラン王政への非難を続けた。
彼は、王政を「ジハード(聖戦)の対象」と決めつけ、断固とした敵対姿勢でカリスマ的な指導者になっていった。
イラン革命への過程で大きな影響力を及ぼした、思想家のアリー・シャリアティーは、「王政の打倒には、シーア派イスラム教の結集が鍵になる」と訴えた。
ホメイニーは、イラン革命(1979年)が成立するまでの間、国王を非難し、国王の背後にいるアメリカを非難し、反王政の活動をする人々を称揚し、大衆の苦難を語った。
この思想は、革命後の反米路線のバックボーンとなった。
ホメイニーらの主張は、王政の不正に憤っていた人々の心を捉えた。
支持者の多くは、世俗的な学生や、地方や農村の出身者(貧困層)だった。
1973年にオイル・ショックが起きると、モハンマド国王は原油価格を4倍に引き上げ、イランでは好況が訪れた。
しかし好況により猛烈なインフレが起きて、貧困層の生活を直撃した。
原油価格の上昇は、貧富の格差をいっそう拡大させた。
国王は、国民の不満を封じるために、SAVAKを使って抑圧をした。
イスラム教の寺院であるモスクは、政府の抑圧が及ばない避難所でもあり、革命運動の拠点となった。
宗教界の経済力も、革命運動に資金的基盤を与えた。
(2014年2月13日に作成)