(『物語イランの歴史』から抜粋)
イラン革命の発火点になったのは、1978年1月7日に新聞に掲載された記事だった。
この記事では、「ホメイニーは外国人で、かつてイギリスのスパイとして活動し、放蕩な生活を送っていた」と書かれていた。
これは政府によって捏造されたものであり、イランの人々はホメイニーが不当に中傷されたと憤った。
宗教都市ゴムでは、数千人がデモを展開し、これが王政打倒に繋がっていった。
反政府デモと、それに対する弾圧のくり返しが続くと、革命運動は高揚した。
国王は運動を抑えきれなくなり、1979年1月16日に国外に脱出した。
そして2月1日に、ホメイニーは15年ぶりにイランに帰国した。
国王派の軍と革命側の武装勢力は戦闘を続けていたが、2月11日に軍の将軍たちは指揮権を革命側に移譲した。
ここに、『イラン革命』は成立した。
2月11日は、革命記念日になっている。
この革命では、左翼ゲリラの「モジャーヒディーネ・ハルク」が重要な役割を果たした。
彼らの尖鋭的な闘争は、1963年6月の民衆暴動の失敗から生まれた。
彼らは、「民主主義的な枠組みの中では、アメリカ帝国主義の打倒は不可能だ。キューバ・アルジェリア・ベトナムのような闘争が、イランでも必要だ。」と判断したのである。
そして、アメリカの軍事顧問の誘拐・殺人などを行った。
革命後の新政府は、バーザール商人、ウラマー(法学者・聖職者)、地方から都市に移住してきた貧困層を、支持基盤とした。
これらは、革命前には抑圧されてきた人々であり、イラン革命は正に天地がひっくり返った変動であった。
革命後には、王政支持派だった富裕層は、アメリカに亡命した。
(2014年2月13日に作成)