イラクのサダム・フセインがイランに攻め込み、
1980~88年まで戦争となる

(『物語イランの歴史』から抜粋)

『イラン・イラク戦争』は、1980年9月に、イラクのサッダーム・フセインによって開始された。

フセインは、イランが革命により混乱しているのを見て、シャットル・アラブ川をめぐるイラン・イラクの国境を、イラクに有利なものに変更しようとしたのである。

また、イランのイスラーム革命が、イラク国内に拡がるのを恐れていた。

開戦すると、イラクをアメリカやサウジアラビアなどの中東諸国が支援した。

1988年になると、イラクはソ連製ミサイルの改良に成功して、射程距離を伸ばした。

そしてイランの諸都市にミサイルが撃ち込まれ、600万人以上が郊外に避難した。

さらにフセインは、88年3月にイラン国境に近いハラプチャという町で化学兵器を使い、数千人のクルド人を虐殺した。

イラクが最前線で化学兵器を使い始めると、イラン兵の退却が頻発し、イラン政府は7月に国連安保理の決議を受け入れた。

こうしてイラン・イラク戦争は、実質的にはイランの敗北で終わった。

戦争、外国資本の減少、人口の急増などにより、イランの通貨リヤールは暴落した。

このため、1980年代の終わりになると、イラン人たちが日本に出稼ぎに来る現象も起きた。

(2014年2月18日に作成)

(『フセインの挑戦』小山茂樹著から抜粋)

イラクは1980年9月17日に、アルジェリアの仲介によって1975年に結ばれた「アルジェ協定(イラン・イラクの国境協定)」を、一方的に破棄した。

そして22日に、イランに侵攻を開始した。

こうして8年に及ぶ戦争が始まったが、この戦争の経過を大観すると、4つの段階に区分できる。

① 開戦~翌81年末まで (イラク優勢の時期)

イラクは、イラン最大の港湾都市ホーラム・シャハルを制圧し、イラン最大の石油精製基地アバダンもほぼ破壊した。

② 1982年初め~同年末 (イランが反撃に転じた時期)

イランは、イラクの侵攻を食い止め、82年に入ると反撃に移った。

アバダンとホーラム・シャハルを奪回し、イラク軍のほとんどを追い返した。

こうして6月にイラクのフセイン大統領は、イラン領からの撤退を発表した。

7月に入ると、今度はイラン軍がイラク領へ侵攻を開始した。

③ 1983年初め~1985年 (膠着状態の時期)

イラン軍の侵攻は、イラク軍の強力な反撃に遭い、戦局は膠着した。

状況を打破するため、イラクはミサイルで都市攻撃をし、さらにフランス製の新鋭爆撃機でイランのタンカーを攻撃した。

これにより、ペルシア湾に戦火が拡大した。

④ 1986年2月~停戦まで (イランが優勢になり、アメリカがイラク側で本格介入した時期)

イラン軍は86年2月に、再び陸上攻撃にでた。

そしてイラクの石油積み出し基地ファオを占領したが、バスラ攻撃は失敗に終わった。

イランが攻勢に出たのを見たアメリカは、介入を決めた。

アメリカ軍は87年7月に、「オイル・ルートを確保する」と言って介入した。

そして、イラン軍と小規模ながら戦い、イランを封じ込めた。

イラク軍は化学兵器を使用し、占領されていた地を奪回した。

(2014年8月18日に作成)


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