(『物語イランの歴史』から抜粋)
イラン革命が成立すると、指導者であるホメイニーは「イスラーム法学者による統治」を主張した。
新生イランは、イスラム教を統治の原理にし、イスラム国家に変身したのである。
この政治理論は、シーア派の教義や慣行に基づいて作られた。
ホメイニーの政治理論は、こうだった。
「主権は神に属し、すべての法はシャリーアの中にある。
人々の義務は、神の法に基づいて生活することだ。
統治するのに適した人物は、神の法を理解する者(ウラマー)である。」
(ウラマーとは、イスラム法学者・学識者のこと)
彼は、「イスラームの高位聖職者(ウラマー)が統治をすれば、人々を安寧や平等に導いて、正義に基づく理想の統治を行える」と信じていた。
しかし、ホメイニーに忠実な「イスラーム共和党」が台頭してくると、ホメイニーの考える理想は、強権的な手法で国民に強制されるようになっていった。
革命後の政府は、要職はウラマーで占められるようになった。
ホメイニーの理論には、反対するウラマーも多かった。
実際に、ホメイニーの理論はイスラム神学の中ではユニークなものだった。
反対者たちは、「聖職者は直接に政治に関与すべきではない」と主張し、その中には新生イランの初代首相バーザールガンや初代大統領のバニー・サドルもいた。
バーザールガンは解任され、バニー・サドルは身の危険を感じてフランスに逃亡した。
外務大臣を務めたゴトブザーデは、1984年9月に処刑された。
こうした政治的抑圧は、革命後の『恐怖政治』である。
イラン革命後は、聖職者(イスラム法学者)や保守層が権力強化をはかる過程で、政敵への弾圧が行われた。
1980年代に私がイランを訪ねた時、「体制の悪口を言うと、殺されてしまう」と言うイラン人にしばしば遇った。
シーア派の宗教活動は、政府の統制下に置かれた。
神学教育も、政府の統制下となった。
新しく制定された憲法では、「人々の主権」が明記されたが、神の法とその代理であるイスラム法学者に絶大な権力が付与された。
そして、大統領が国民主権を代弁し、最高法学者が神の法を代弁する、二重の権力構造となった。
これが、イラン政治の混乱の原因となった。
大統領は国民の直接選挙で選ばれるが、ファギーフ(イスラムの最高法学者・指導者)は間接選挙で選ばれる。
ファギーフは、12人のイスラム法学者から成る「護憲評議会」によって補佐されるが、そのうち半数の6人はファギーフが任命する。
護憲評議会は、国会の決定に対して拒否権を行使できるため、政治決定権を持っている。
そして保守派が支配しており、選挙の立候補者の審査をしているため、イスラム共和国(現体制)の枠からはみ出る人物は立候補できない。
1997年にテヘラン大学の学生が民主化の暴動を起こした際に、彼らが最も批判したのは、この立候補者の審査であった。
革命後は、女性には外出の際にヘジャーブ(女性専用の外套)が強制され、髪の露出は厳禁となった。
こうした措置は、国民の不満の対象であり続けている。
一方でホメイニーは、弱者への配慮と公平な社会を掲げた。
イラン革命は、「王政による弾圧政治の廃止」と「貧困層の救済」が大義だった。
しかし、イラン・イラク戦争の混乱と、アメリカの封じ込め政策によって、イラン経済は混迷してしまった。
結局、貧困層の救済は実現できなかった。
(2014年2月18日に作成)