(『物語イランの歴史』から抜粋)
第2代国王のファトフ・アリーは、1834年に他界したが、大ハーレムを所有していたので、100人もの子供がいた。
王位はモハンマドが継いだが、彼が王位についたのはイギリスの後押しがあったからである。
イギリスは、ロシアがイランで得ているのと同じ利権を、1836年と1841年に獲得した。
1841年の条約では、「最恵国待遇」をも獲得し、イランはイギリスの半植民地になった。
1840年に、シーア派の一派である「イスマーイール派」が反乱を起こした。
この反乱は鎮圧され、イスマーイール派は人々はインドに逃れた。
イスマーイール派の指導者は、代々「アガー・ハーン」を名乗るが、アガー・ハーンの家系はその後、インドで富豪になっていく。
(2014年1月17日に作成)