(『兵器ディーラー』ハーマン・モール著から抜粋)
1985年
1月
ウィリアム・ケイシーCIA長官は、ビジネスマンのロイ・ファーマークに「アメリカ政府は、イラン向けの兵器取引を承認する事になる」と話す。
ファーマークは、ゴルバニファーと兵器ディーラーのアドナン・カショーギに会い、兵器と人質(ベイルートで誘拐されたアメリカ人)交換の取引について検討する。
2月
ファーマークは、顧問弁護士のサム・エバンスに、「兵器などをイランに販売する会社を、キルス・ハシェミおよびカショーギと共同で設立する予定だ」と話す。
2月27日
フランス人の兵器ディーラーであるベルナール・ベイヨは、イラン空軍に戦闘機39機を供給する契約に調印する。
4月
アメリカの国家安全保障委員会の顧問マイケル・レディーンは、イスラエルを訪問する。
そして、兵器と人質を交換する取引へのイスラエルの援助を協議する。
5月
ファーマークとカショーギはハンブルクで、イラン側の仲介者であるゴルバニファーに会う。
イラン向けの兵器売却を検討する。
5月17日
CIAは、イラン向けの兵器売却の禁止を緩和するように勧告する。
ワインバーガー国防長官は反対する。
6月
ウィリアム・バックレーCIAベイルート支局長は、拘束中に死亡する。
発表は10月に行われた。
6月13日
ファーマーク、カショーギ、ゴルバニファー、サム・エバンス、キルス・ハシェミは、ハンブルクで会談する。
7月 3日
イスラエルのキムヒ外務次官は、アメリカのマクファーレン国家安全保障問題担当・大統領補佐官と会談する。
この月に、イスラエル・イラン・アメリカの3国は、話し合いを重ねて、兵器と人質解放の交換案が具体化する。
イラン側は、TOWミサイル500基が欲しいと言い、見返りとして人質解放を請け負った。
7月 8日
レーガン大統領は演説で、「イランは国際テロに関与している」と非難する。
8月 6日
レーガンは、アメリカ製兵器をイスラエル経由でイランに供与する事を、口頭で承認する。
8月30日
TOWミサイル100基などのアメリカ製兵器が、イスラエルからイランに輸出される。
ポルトガル経由で行われ、CIA所有の航空会社も関与する。
資金面はカショーギが担当し、カショーギはタイニー・ローランドから借金したと報じられる。
イランは、カショーギを通じて100万ドルを支払う。
これは、イスラエルがアメリカから購入した時よりも相当高かった。
9月13日
追加のTOWミサイル408基が、イスラエルからイランに送られる。
300万ドルがイスラエルに支払われる。
2日後に、アメリカ人人質のベンジャミン・ウェアが解放される。
11月
キルス・ハシェミは、アメリカ連邦税関と取引をする。
訴追の中止を条件にして、おとり作戦に加わることに。
同月
アメリカNSCのオリバー・ノース中佐らは、残る5人の人質解放を目指して、ホーク地対空ミサイル120基をイランに供与する事を決める。
11月4日に18基がイランに渡されるが、イラン側の求めている能力がなかったので、翌年2月に返却される。
人質解放は行われず。
ノース中佐はさらに、改良型ホークミサイル50基+TOW3300基をイランに供与する事を決める。
こうした計画に合法性を持たせるため、大統領の認定書が必要になる。
認定書の起草にはCIAがあたり、レーガンは12月5日にこの秘密文書に署名する。
11月30日
ビジネスマンのリチャード・ブレネクは、ブッシュ副大統領を含む政府高官に、「イランへの兵器売却を私的に試みたらどうか」とのメモを送る。
12月 4日
レーガンは、マクファーレンの1月辞任と、後任にはポインデクスター海軍少将の起用を、発表する。
12月31日
CIAにコネを持つベルナール・ベイヨは、「アメリカが直接的にイランに兵器を売却する事について、ブッシュ副大統領の承認が間近だ」と、ハシェミに話す。
1986年
1月 1日
ブレネクのメモによると、ポインデクスターはTOWミサイル1万基のイラン売却を承認する。
1月 6日
レーガン大統領は、アメリカ製兵器のイスラエルからイランへの輸出を認める認定書に署名する。
1月17日
レーガンは、今度はアメリカから直接にイランに兵器売却する事を認める認定書に署名する。
CIAがTOWミサイル4000基を、国防総省から徴用してイランに渡すことに。
2月 5日
イランとアメリカの代表団が、フランクフルトで会談する。
ノース中佐とゴルバニファーも同席する。
この会談でゴルバニファーは、「兵器売却で得た金は、コントラ支援に使えるのではないか」と提案する。
ノースは後に公聴会で、「素晴らしいアイディアだった」と証言する。
2月 7日
サム・エバンスは、「ワシントンが兵器取引にゴーサインを出した」と、ハシェミに伝える。
「シュルツ国務長官は反対しているが、ブッシュ副大統領が賛成派だ」と話す。
2月13日
TOWミサイル1000基が、イスラエル経由でイランに送られる。
2月24日
イランとアメリカの代表団は、フランクフルトで再会談する。
3月 8日
ノース中佐とゴルバニファーは、パリで会談する。
4月
ロンロ社の最高役員であるタイニー・ローランドは、資金援助をカショーギから打診される。
「イランとの兵器取引には、アメリカ政府の承認がある」と聞かされたローランドは、ロンドンのプライス駐英大使に照会する。
プライスは本国のポインデクスターに照会し、「断片的な事実はある」との回答を得る。
ローランドは、援助を断る。
4月15日
アメリカの戦闘機が、リビアを爆撃する。
アメリカは、「同月にベルリンのディスコで起きた爆弾テロに、リビアが関与したからだ」と説明する。
爆撃の報復として、ベイルートのアメリカ人人質ピーター・キルバーンは殺される。
テロにはシリアが関与していた(リビアは関与していなかった)と、後に判明。
爆撃の真の目的は、カダフィの殺害であったという。
4月21日
ハーマン・モールは、ニューヨークでハシェミに会った後、アメリカ連邦税関に逮捕される。
容疑は、イラン向けの兵器禁輸令の違反など。
4月22日
サム・エバンスらも、バミューダ島で身柄を拘束される。
5月23日
マクファーレン元大統領補佐官とノース中佐らは、ホークミサイルの予備部品を積んだ飛行機で、イランのテヘランに行く。
イラン政府の関係者と会談するが、人質の解放は行われず。
7月21日
キルス・ハシェミは、ロンドンで急性白血病になり、急死する。
7月26日
ベイルートで監禁されていたアメリカ人のジェンコは、18ヵ月ぶりに解放される。
ノースとポインデクスターは、「兵器売却の成果である」と主張する。
10月 7日
ロイ・ファーマークは、カショーギの要請でケーシーCIA長官を訪問する。
そして、「カショーギは、兵器売却代金のイランからの取立てに難渋している」と伝える。
10月29日
TOWミサイル500基が、新たにイランへ送られる。
3人のアメリカ人人質の解放が交換条件だった。しかし1人しか解放されず。
10月30日
ハーマン・モールは、保釈金を払って出所する。
11月 3日
マクファーレンのテヘラン訪問と、ノースの兵器売却を、ベイルートの雑誌が報道する。
11月 5日
アメリカの各誌も、イランとの取引を報じ、『イラン・ゲート事件』と命名する。
11月13日
レーガン大統領は演説で、兵器をイランに渡した事を認める。
11月21日
ノースと秘書のフォーン・ホールは、オフィスでイラン・ゲートの書類を裁断機にかける。
11月25日
イランへの兵器売却の利益が、ニカラグアの反政府ゲリラであるコントラ援助に転用されていた事が、明るみに出る。
ポインデクスターは、大統領補佐官を辞任し、ノースはNSCから解任される。
イスラエルは、イラン・ゲートに関与していた事を認める。
11月26日
タワー委員会が設置され、イラン・コントラ・ゲート事件の調査が始まる。
12月 5日
ケーシーCIA長官は、上院での証言予定の前日に、脳腫瘍で入院する。
1987年
2月 2日
ケーシーは、CIA長官を辞任する。
2月 9日
マクファーレンは、タワー委員会の出席予定の前夜に、鎮静剤の飲みすぎで倒れる。
自殺未遂との見方も出る。
2月27日
大統領主席補佐官のドナルド・リーガンが辞任する。
後任は、ハワード・ベーカー。
3月14日
レーガンは演説で、「イランとの取引に反対したシュルツとワインバーガーの警告に、耳を傾けるべきだった」と述べる。
5月
イラン・コントラ・ゲートの議会公聴会が始まる。
ケーシーは脳腫瘍で死亡する。
7月25日
ポインデクスターは、「われわれの政策は、対イラン兵器禁輸ではなかった」と、議会公聴会で証言する。
(2014年3月5日に作成)