(『兵器ディーラー』ハーマン・モール著から抜粋)
私(著者のハーマン・モール氏)がイラン・コントラ・ゲート事件に巻き込まれたきっかけは、ロンドンの超豪華メンバーズ・クラブ「レ・アンバサドゥール」だった。
ここは、かつてはロスチャイルド家の大邸宅であった。
この一帯は、富裕なアラブ人のお気に入りで、アラブ人と取引のある金融関係者や各種ディーラーも出入りする。
クラブの運営委員の1人には、法務長官と大法官を務めたヘイバース卿の名前もある。
私はここで、アメリカ人弁護士のサム・エバンスと知り合った。
サム・エバンスはロンドンで開業して20年で、石油成金のポール・ゲッティの仕事を一時期していた。
さらに、兵器ビジネスに乗り出す予定のカーゾン・マーチャンツ社の設立に力を貸していた。
この新会社の中心人物は、メル・トンプソンというアメリカ人だった。
1984年当時(イラン・イラク戦争の最中)は、アメリカの民間で購入される兵器は、多くはイラン向けであり、アドナン・カショーギ(超有名な武器商人)がイランとの取引に関係していた。
サム・エバンスは、カショーギの弁護士だった。
兵器ビジネス界でみんなが話題にしていたのは、『イスラエルがイランに兵器を売っており、アメリカはイスラエルに代わりとなる兵器を供給している』ことだった。
アメリカ政府はこれを否定していたが、後になってすべてが明るみに出た。
イスラエルはさらに、イラクが捕獲したイラン兵器を、イランに売り戻す事までしていた。
イスラエルにとっては、イランもイラクも敵だ。
だから、「兵器を供給する事で両国が殺し合うのは、利益になる」と考えていた。
アメリカは、イラクとソ連が友好関係にあるので、「イラクが勝てば、中東でソ連の影響力が拡大する」と考えて、イランに兵器が渡るのを認めていた。
イランは、1987年9月にイギリス政府が閉鎖に踏み切るまで、イギリスのビクトリア・ストリートに兵器購入事務所を設置していた。
イラン国有石油会社の看板を掲げたこの事務所を通じて、大量の兵器を買っていた。
87年9月に、イギリスの船がペルシャ湾でイラン機の攻撃を受けたため、会社は国外追放となった。
兵器ディーラーは得意先に、自分の扱う製品の供給元は決して明かさない。
両者が直取引を始めて、中間商人を排除するのを恐れるからである。
ジョン・ソンダースは、かつてUAEで軍需物資の調達担当官をしていた。
ソンダースは、UAE陸軍での事を明かしてくれた。
請負契約が1つ出されると、5~6社が入札に参加する。
多額のコミッション(手数料)をもらう見返りとして、その中の1社に各社の入札内容を教えて、勝てるようにしてやる。
そしてコミッションは、上官と山分けするのだ。
私とソンダースは、共同でインターナショナル・サービス・ベルファイン社を始めた。
兵器業の方は、パナマに別会社を設立した。
初めての兵器ビジネスは、ハノーバーの航空ショーの時だった。
チリ陸軍向けの機関銃を頼まれ、スリランカのストック品から手に入れてやった。
その後、イランからは防護服と砲弾を頼まれた。
防護服は台湾から、砲弾はポルトガルから調達した。
私は1984年に、中東を訪れた。
アシフ・マームウドというパキスタン人が一緒だった。
アシフは、パキスタンの故ブット大統領の甥で、元々はフィクサーだった。
ドバイでは、バーネット少佐に会った。
彼は、ドバイ軍の調達担当官を務める、イギリス人である。
私の交渉相手は、イランのキルス・ハシェミで、ハシェミはラフサンジャニ・国民議会議長のいとこだった。
ハシェミは私に、「兵器はアメリカ製でなければ買わない」と言った。
キルスとバラニアンのハシェミ兄弟は、兵器取引のための会社を、アメリカとイギリスに設置していた。
ハシェミの最初の取引先は、ノース中佐かホワイトハウスの別のメンバーだったらしい。
カーター政権時代に司法長官だったエリオット・リチャードソンは、86年11月のインタビューで、「ハシェミを、CIAに『イランとの兵器取引のパイプになれる人物だ』と推薦した」と述べている。
ハシェミの動きがノースの大きい取引の邪魔になり始めて、ハシェミを連邦税関に売り渡す事が決められたらしい。
そして連邦税関は、ハシェミをおとり作戦に使った。
(2014年3月5日に作成)