イラクがイランに攻め込んだ理由②

(『フセインの挑戦』小山茂樹著から抜粋)

イラクのフセイン政権は、開戦理由として次の3つを挙げた。

① 領土権の承認(領土の返還)

② シャットル・アラブ川の主権の承認

③ ホルムズ海峡の3島(アブ・ムーサ、大トンブ、小トンブ)の、アラブ側への返還

まず①だが、これは両国の国境中部で「イランが不法にイラク領を占領してきた」とする。

イラクは、「1975年のアルジェ協定でイランは、イラクに土地を返還するとしたのに、実行していない」と主張した。

(アルジェ協定については後述します)

②のシャットル・アラブ川は、イランとイラクの国境にある川だ。

この川は長年にわたってイラクが(オスマン・トルコが)領有していたが、1975年のアルジェ協定で国境線を川の真ん中にするように修正された。

フセイン大統領は、「再修正して元に戻せ」と主張したのである。

③の3島は、元来はUAEの領有であった。

1971年11月にイギリス軍がペルシア湾から撤退するに及んで、モハンマド国王のイランが「ペルシア湾の航行安全を確保する」という名目の下に、3島を占領した。

イラクは、「元来の所有者であるUAEに戻せ」と主張したのである。

(※ここからは歴史的な経緯の説明に入ります)

今日のイラン・イラク国境は、古来からアラブ民族・ペルシア民族・トルコ民族が交叉する接点である。

オスマン・トルコ(イラクを含んだ大帝国)とペルシア(現イラン)との間に、初めて国境画定条約が結ばれたのは、1639年だった。

この時に、バグダードとバスラはトルコへ帰属することが決まった。

この国境条約は、1746年と1832年にも確認された。

さらに1847年の『エルゼルム条約』によって、両国国境の最南部であるシャットル・アラブ川の領有権にも言及される事になった。

シャットル・アラブ川は、チグリス河とユーフラテス河が合流してからペルシア湾に注ぐまでの、170kmに及ぶ川である。

この川の領有権が問題になり始めたのは、この地域にイギリスが重大な関心を持ち始めてからだった。

イギリスは東インド会社を、1736年にバスラに、1795年にはバグダードにまで進出させ、チグリス・ユーフラテス両河の交通の確保に執心していた。

1860年代に入ると、イギリスは両河の航行権を独占するまでになった。

シャットル・アラブ川は、バスラおよびバグダードへの唯一の航路で、オスマン・トルコとイランのどちらに属するかは重要だった。

1847年の『エルゼルム条約』では、「国境線はシャットル・アラブ川の東岸にする」と決まり、同川はトルコ領になった。

イギリスとロシアが参加した1913年の『コンスタンチノープル議定書』でも、この国境線は踏襲された。

その後、第一次大戦となり、敗北したオスマン・トルコは解体されて、イラクはイギリスの統治下に入った。

1932年に、イラクはイギリスの統治下から離れ、独立国になった。

その後、シャットル・アラブ川の領有権をめぐってイラクとイランは揉めてしまい、1934年に国連の調停が入り、37年に条約が結ばれた。

この条約でも、河口からアバダンまでの8kmは川の真ん中を国境とする以外は、1913年の国境が認められました。(つまりイラク領に入った)

しかし、この問題は1968年に再燃した。

イラクに登場したバース党政権に対して、イランは条約の破棄を宣言し、以後は無協定の状態になった。

1975年になってようやく、アルジェリアのブーメディエン大統領の仲介により、イラン国王モハンマドとイラク副大統領サダム・フセインが会談した。

そして、『アルジェ協定』が成立した。

アルジェ協定の内容は、次の3つである。

① シャットル・アラブ川の国境線は、水路の中央線とする

② 陸地の山岳地帯の国境線も、再画定する

③ お互いに破壊工作するのを終わらせるため、国境で監視を実施する

①は、東岸をもって国境線とする歴史的国境を、大改定するものだった。

②は、最初に書いた開戦理由の「①領土権の承認」の根拠になった。

③は、イラン・イラク国境に住むクルド人を、イラン・イラクの双方が反体制組織として利用してきたが、これを止めようという事である。

クルド人は、イラン・イラク・トルコ・ソ連の4国にまたがる山岳地帯に住む民族だが、国を持てなかったために反体制勢力になってきた。

そしてイランとイラクはお互いに、相手国のクルド人に資金や武器を与えて、反政府活動を行わせてきた。

アルジェ協定により、イランはクルド人へのいっさいの援助を止め、国境の閉鎖も決めた。

イラクは、イ・イ戦争の開戦理由について、「国境付近の領土の返還」と「シャットル・アラブ川の領有権の復活」を挙げた。

これは、前者ではアルジェ協定の実行を迫り、後者では同協定を否認するものである。

その点において、イラクは自己矛盾に陥っていたといえる。

(ここからは、最終的にどうなったかを書きます)

イラクのフセイン政権は、1990年8月2日にクウェートに侵攻したが、国際社会から強力な経済制裁を受けた。

すると8月15日に、突然に「イランとの和平条約を結ぶ用意がある」と表明し、条件を提示した。

すでにフセインは、開戦直後の8月3日にイランに親書を送り、『2600平方kmにわたって占領しているイラン領からの撤退』と『首脳会談の開催』を提案していた。

8月15日のフセイン提案は、イラクの全面譲歩の内容で、次のものだった。

① アルジェ協定の受け入れ

② イラン領内のイラク部隊を、17日から撤退開始する

③ イランとの捕虜交換を17日から開始する

この提案は、イランによって直ちに受け入れられた。

21日にはイラク軍の撤退は完了し、26日にはイラン軍捕虜2万人の送還が完了した。

こうして、イ・イ戦争の戦後処理は、イラクの全面譲歩であっけなく終了した。

イラクが追い込まれていた証左だが、「8年余に及んだイ・イ戦争は何だったのか」と問いたくもなる。

イラクがイ・イ戦争で真の目的にしたのは、『新生イランを倒して、イラン革命の伝播を阻止すること』だった。

イラクが譲歩して和解した事実は、イラクが「イランの脅威は失せた(脅威は誤解だった)」と認識していた事も示している。

(2014年8月18日に作成)


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