モサッデク政権転覆のクーデターを主導したのはCIAだった

(『CIA秘録』ティム・ワイナー著から抜粋)

1953年1月に、退任直前のベデル・スミスCIA長官は、部下のカーミット・キム・ルーズベルトを呼んでこう尋ねた。

「一体いつになったら、例の作戦(イランでのクーデター)は始まるのかね?」

カーミットは、セオドア・ルーズベルトの孫で、フランクリン・ルーズベルトの従兄弟でもあり、CIAの中東地域の責任者だった。

イランのモサッデク首相は、クーデターを図ったイギリス人を捕まえ、イギリス大使館の全員を国外追放にしていた。

カーミットは、イギリスのために働いていたイラン人工作員を支援し、イギリスが作ったスパイ・ネットワークを維持していた。

そしてイギリスのチャーチル首相は、モサッデク政権を倒そうとしていた。

(ここから少しの間は、これまでのイランの歴史の説明になります)

かつてイギリスはイランを植民地にして、油田を掘り当てた。

その後イランの石油は、イギリス大蔵省の生命線になった。

第一次世界大戦の頃には、イランの北部ではイギリス・ロシア・トルコの軍隊が大暴れして、イランの農業を破壊した。

そのため飢饉となり、200万人が死んだ。

この混乱の中から、コサックの指揮官レザー・ハーンが頭角を現し、武力でイラン国王となった。

第二次大戦中には、ソ連軍とイギリス軍が共同でイランを占領した。

アメリカ軍は、イランの空港と道路を使って、180億ドルに上る軍事援助をスターリンに(ソ連に)輸送した。

(第二次大戦では、米英とソ連は協力して、日独伊と戦った)

第二次大戦中にイランにいたアメリカの重要人物といえば、イランの憲兵隊と地方警察を組織したノーマン・シュワルツコフ将軍だ。

(ノーマンは、1991年の湾岸戦争の司令官を務めたシュワルツコフの父である)

当時のイランは、石油労働者の賃金は1日にわずか50セントで、飢えにあえいでいた。

ルーズベルト大統領、チャーチル首相、スターリンは、1943年にイランのテヘランで会談したが、イラン国民の窮状については放置したままだった。

イギリスが牛耳るアングロ・イラニアン石油は、イランの油田を支配し、イギリス人たちは会員制のクラブやプールで優雅に遊んでいた。

その一方で、イラン人は水道も下水もない掘っ立て小屋で暮らしていた。

この状況があったからこそ、モサッデク首相はイギリス人を追放し、国民もそれを支持したのである。

1952年11月26日に、イギリス諜報員のモンタギュー・ウッドハウスは、ワシントンでCIAのベデル・スミスとフランク・ウィズナーに会った。

3人は、『モサッデクを政権から追放する方法』を議論した。

アメリカは、表向きはモサッデクを支持しながら、クーデターに向かって走り始めた。

53年2月28日に、イギリス諜報機関の長であるジョン・シンクレアがワシントンに来た。

シンクレアは、アレン・ダレス新CIA長官に会い、「クーデターの責任者はカーミット・ルーズベルトにしよう」と提案した。

カーミットは、作戦名を『エイジャックス作戦』とした。

彼はすでに2年前から工作を進めていた。

CIA要員は、1万人の兵士を6ヵ月間支援できるだけの、カネと武器を隠し持っていた。

カーミットは、買収と破壊活動を強化し、ならず者の力も借りた。

イギリスの持つ買収工作ネットワークは、ラシディアン兄弟が動かしていた。

この兄弟は、イギリス系イラン人の3兄弟で、イランの船舶・銀行・不動産を支配していた。

ラシディアン一家は、国会やバザール商人にも影響力を持っていた。

彼らが買収した人物には、モサッデク政権の閣僚や、国王の従僕まで含まれていた。

アレン・ダレスはNSC(国家安全保障会議)で、「イランが共産化すれば、中東のすべてが共産化し、アメリカでも石油とガソリンを配給制にしなければならなくなる」と主張した。

しかし、アイゼンハワー大統領は全く同調せず、「むしろ1億ドルの借款をイランにした方がましだ」と考えていた。

モサッデクのほうも、イギリスがイラン石油の国際ボイコットを呼びかけたため苦しんでいる経済状況を、「アメリカに救ってもらいたい」と考えていた。

1953年3月18日に、アレン・ダレスCIA長官はクーデター計画の遂行の許可を出した。

しかしアイゼンハワーは、依然としてイラン政府の転覆に懐疑的だった。

(CIAを止められない大統領、実に情けないですね)

クーデター計画に最初から加担していた駐イラン大使のロイ・ヘンダーソンは、クーデターの看板に自堕落なザヘディ退役少将を立てようとするイギリスに、強く反対していた。

しかしイギリスはザヘディを指名し、CIAもこの男を支持した。

4月末に、イランの国家警察長官が、誘拐されて殺害された。

容疑者はザヘディの支持者で、ザヘディは雲隠れした。

5月になるとザへディは、CIAからの資金を武器に、クーデターの実行部隊を集めようとした。

CIAは、パンフレットやポスターを作成して、10万ドルを投じて宣伝戦を展開した。

そして、「モサッデクはソ連寄り、モサッデクはイスラムの敵、モサッデクは経済を破綻させる」と宣伝した。

国会議員を買収するために、毎週ごとに1.1万ドルが注ぎ込まれた。

だが、クーデター計画は実行前に漏れてしまった。

7月になると、イラン・ツデー党(イランの共産党)のラジオ放送では、「アメリカがザヘディ将軍らと組んで、モサッデクを粛清しようとしている」と警告し始めた。

この時期になっても、ザヘディは配下の兵士を1人も持っていなかった。

そのためカーミットは、ロバート・マクルア准将に相談した。

マクルアは米陸軍におり、CIAとの合同作戦をもっぱら指揮していた。

1950年からは、アメリカ軍事顧問団を指揮するためテヘランに居り、イラン人将校に訓練と助言をしていた。
これにより、イラン人将校につてがあった。

CIAは、クーデター計画にイラン国王を加えるため、アシュラフ王女を説得した。

説得するために、相当な額の現金とミンクのコートを提供し、クーデター失敗の場合は王族の生活費の面倒を見ると約束した。

しかし国王は弱気で、「自分はクーデターに同調しない」と告げた。

カーミットは王宮に通い、「CIAの言う通りにしなければ、イランは共産化するか、第二の朝鮮になる(国が分断される)。そうなれば王族は処刑されるぞ。」と脅した。

国王は恐れをなして、別邸へ逃げていった。

カーミットは、「モサッデクを解任して、ザヘディを首相にする」との国王布告を作成し、強引に国王から署名をもらった。

翌日の8月13日に、カーミット配下のイラン人工作員たちは、テヘランの街頭で「モサッデクは共産主義者でユダヤ人」といった宣伝書をばら撒いた。

さらに、ツデー党を装ったCIA工作員は、聖職者やモスクを襲った。

カーミット・ルーズベルトは8月14日に、CIA本部にさらに500万ドルを送るように要請し、その日の夜にクーデターを実行した。

だが、察知していたモサッデクは自宅周辺をイラン軍で固め、クーデター軍は拘束されて作戦は失敗に終わった。

8月16日にカーミットは、「クーデターを仕組んだのはモサッデクだ」と国王に言わせようとし、国王は言われた通りにした。

その日の夜、カーミットの部下はイラン人工作員に5万ドルを渡し、ならず者を集めるように指示した。

翌朝にならず者たち数百人は、共産主義者を装ってテヘランの街で略奪や放火をした。

ヘンダーソン大使、カーミット、マクルアの3人は、大使館内で協議をし、『無政府状態を作るための新計画』を作成した。

そして、クーデターを支持する兵士を集めること、街頭の暴力集団をもっと雇うこと、シーア派の最高指導者を買収して聖戦を宣言させること、が決まった。

しかしCIA本部では、フランク・ウィズナーが絶望していた。

彼はクーデター計画の中止を考えていた。

ところが8月19日に、イランで革命が始まった。

アメリカ大使館にいたウィリアム・ラウンツリーは、こう語る。

「革命のデモ行進は、運動クラブのデモのような形で始まった。
(CIAが雇った重量挙げの選手やサーカス団員が参加者だった)

彼らは『モサッデク反対、国王支持』を叫びながら行進し、多くの人々が加わって大掛かりな行進になっていった。」

群衆は政府の幹部を拘束し、新聞4社のオフィスを焼き払い、親モサッデクの政党本部を襲った。

群衆の中には、宗教指導者が2人混じっていた。

1人はアヤトラ・ルホラ・カシャニ。もう1人はカシャニを信奉する51歳のムサビ・ホメイニ。

(ホメイニは、1979年にイラン革命を主導し、革命後に国家指導者となる。)

ルール・マーク・ゲレクトは、こう指摘する。

「モサッデク政権を倒して国王を復権させたのは、アメリカ人ではない。

アメリカのクーデター計画は、ことごとく不首尾に終わった。

クーデターが成功したのは、アメリカともイギリスとも繋がりのないイラン人が、デモ行進の主導権を握ったためである。」

(※デモを主導したのが英米と繋がりのないイラン人だとしても、彼らがCIAの工作や情報に踊らされて行動を起こしたのは間違いないです。

そしてデモ行進の結果、アメリカの望む体制が出来上がりました。

つまり、CIAのクーデター作戦が上手くいったという事です。)

デモ行進の拡大を見たカーミットは、イラン人工作員に電報局・宣伝省・警察本部・軍本部を襲撃するように指示した。

午後までに、工作員はテヘラン放送局でラジオ放送を始めていた。

カーミットは、かくまっていたザヘディに会い、「自分が新首相であると宣言しろ」と告げた。

ザヘディは恐れおののき、軍服のボタンをはめるのにもCIA職員が手を貸すほどだった。

その日、テヘランの街頭では少なくとも100人が死亡した。

CIAは、国王警備隊にモサッデクの自宅を攻撃させ、少なくとも200人が死亡した。

モサッデクは逃亡したが、翌日には投降し、その後は3年間も投獄された。

さらに10年間も自宅軟禁となり、そのまま死亡した。

カーミットは、ザヘディに100万ドルを現金で渡し、新首相となったサヘディは弾圧に乗り出して数千人を投獄した。

カーミットはホワイトハウスで英雄と賞賛され、ダレスCIA長官も栄光にひたった。

イラン国王は、次の国政選挙でCIAが雇った者を使って、不正を行った。

3年間も戒厳令を布き、新たな諜報機関を設けるためにCIAに頼った。

その新しい諜報機関は『SAVAK』と呼ばれ、CIAに訓練されて国王支配を支えていく。

アメリカを代表して国王と話をするのは、アメリカ大使ではなく、CIAのテヘラン支局長となった。

(2015年1月25日に作成)


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