19世紀の後半になると、さらに植民地化が進み、
イランは弱っていく

(物語イランの歴史、誰にでもわかる中東、から抜粋)

1848年に第3代国王モハンマドが死去すると、ロシアの支援を受けて、ナーセロッディーンが後を継いだ。

ナーセロッディーン国王の下で宰相になったのは、アミール・キャビールである。

アミール・キャビールは、「上からの近代化」を促進した。

彼は、軍隊をヨーロッパ式に仕上げることを目指した。

さらに、イラン初の日刊紙を創刊し、高等教育機関を設立した。
イラン学生のヨーロッパ留学も行った。

こうした改革は、既得権益を持つ保守層に脅威を与えた。

国王は1851年に、彼を宰相から解任し、彼は翌年に殺された。

イランは1856年に、アフガニスタンのヘラートを再び狙った。

イギリスはこれに怒り、イランに軍隊を送り込んだ。

カージャール朝のヘラート進攻は、この地域をインド防衛の重大な緩衝地帯とみるイギリスの介入によって失敗し、かえってアフガニスタンの独立を認めることに繋がった。

1857年にイランとイギリスは、『パリ条約』を結んだ。

これにより、イランはヘラートへの野心を放棄し、さらに「関税自主権の放棄」「治外法権の許可」もさせられた。

一方ロシアは、中央アジアに牙を向けて、1865年以降にタシュケント、サマルカンド、ブハーラ、ヒーヴァを占領した。

84年には、ホラーサーンの最重要都市メルヴをも割譲させる『アファール条約』を、イランと結んだ。

こうしてイランは、アトラク川をほぼ国境とする、今日まで続く国境線の画定を余儀なくされた。

さらに1889年には、ロシアに対して漁業権を含むカスピ海の包括的な利権が与えられた。

19世紀の後半に入ると、イランでは王族がヨーロッパ流の贅沢をし、官職は金でやり取りされた。

ヨーロッパ諸国の進出により、イランは世界経済に組み込まれて、ペルシャ絨毯は競って買われていった。

綿花・果物・ナッツ・アヘンの輸出が伸び、富裕層は農地の買い占めをした。

農民たちの不満は増大していったが、イラン政府は「農民が反乱を起こしたら、ロシアとイギリスがそれを制圧する」との約束をしていた。

不人気だったカージャール朝が140年以上も続いたのは、ロシアやイギリスの支援があったからである。

ヨーロッパ諸国への従属を強めたため、イランは弱体化していった。

(2014年1月17日に作成)


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