(物語イランの歴史、誰にでもわかる中東、から抜粋)
ロイター利権が先例となり、イランの植民地化はいよいよ深刻化した。
1890年3月には、イギリス人のメイジャー・タルボットに、『イランのタバコを50年間にわたって独占する権利』が与えられた。
タルボットには、タバコの栽培・製造・輸出の独占権が、50年間も保証された。
この事実は隠されていたが、新聞「アフタル」がすっぱ抜いた。
国民の反発が高まり、タルボットの会社は、イランに年間1500ポンドと総収益の4分の1を支払う事になった。
タバコ利権の譲渡は、イランでタバコが愛好されていたので市場も大きく、大問題となった。
パン・イスラーム主義の提唱者であるアル・アフガーニーは、この件について「イギリスによるイラン植民地化を進めるものである」と訴え、反対運動を展開していった。
アル・アフガーニーはイランの生まれで、合理主義の哲学を学び、1857~58年に英領インドを旅行して、イギリス帝国主義に嫌悪を持った。
アフガニスタンで反英の闘争をしたが、失敗して60年代末にイスタンブールに移住した。
70年代はエジプトで暮らし、青年たちに思想教育をした。
彼はエジプトを追放されると、インドとイギリスで、パン・イスラーム主義を展開する政治評論誌の編集長となった。
その後イランに戻り、カージャール朝に激しい批判をした。
タバコ利権の譲渡を批判するパンフレットを発行すると、1891年に国外追放となった。
タバコ利権の譲渡が暴露・告発されると、イランでは抗議デモが盛り上がった。
抗議デモには警官や民兵が発砲して、多くの市民が犠牲となった。
デモの指導者だったアリー・アクバルは、イラクに追放されたが、アフガーニーと共に、シーア派の最高位の聖職者であるハサン・シーラーズィーに対して、「イラン国王は、イランをイギリスに売っている。激しく弾劾してほしい。」と要請した。
シーラーズィーは要請に応えて、「神の御名において、どのような喫煙であれ、イマーム(シーア派の最高指導者)に対する戦いとみなす」とのファトワ(教令)を出した。
シーア派の聖職者たちは、「タバコ栽培業者は、イギリス人に売却してはいけない」「国民は、タバコの吸引はやめよう」と訴えた。
主要都市のバーザール商人たちも、抗議の閉店を行った。
タバコ・ボイコットは、広汎な人々に支持され、王族の中にも支持者が現れるほどだった。
2年あまりの抗議の結果、ナーセロッディーン国王は利権の廃棄を宣言した。
この背景には、イギリスと競合していたロシアの圧力や、イギリスの譲歩があった。
イギリスは、イラン政府がタルボットに50万ポンドを支払うことを条件に、利権の放棄を認めた。
タバコ・ボイコット運動は、イランのナショナリズムが台頭する契機となり、イラン人たちは『国家としてのイラン』を意識するようになっていく。
聖職者たちがボイコットの最先鋒に立ったことで、彼らに対する国民の信頼はさらに高まった
(2014年1月18日に作成)