(物語イランの歴史、誰にでもわかる中東、から抜粋)
アル・アフガーニーは1892年に、オスマン帝国のスルタン(皇帝)であるアブデュルハミトⅡ世に招かれた。
そして、「パン・イスラーム主義を普及させてほしい」と要請された。
(パン・イスラーム主義とは、イスラム教の宗派の対立を超えて、すべてのイスラム教徒・イスラム教国の連帯を目指す運動のことである)
スルタンは、パン・イスラーム主義を用いて、ヨーロッパ帝国主義に対抗しようと考えていた。
アフガーニーは、各地のシーア派たちに、協力を呼びかけた。
「スンナ派の頂点にあるスルタンに、シーア派も従うことで、イスラームは団結でき、ヨーロッパの侵略に対抗できる」と説いた。
アフガーニーの弟子に、レザー・ケルマーニーがいた。
ケルマーニーは、反政府運動をしていたために長年にわたって獄中にあり、出獄するとアフガーニーに会いに来た。
アフガーニーは、「ナーセロッディーン国王(イラン国王)を、殺害しろ」と促した。
ケルマーニーは指示通りに、1896年5月1日に、国王を射殺した。
ケルマーニーは絞首刑となり、カージャール朝はアフガーニーの身柄の引渡しをオスマン帝国に求めた。
スルタンは拒絶したが、アフガーニーの主要な3人の支持者をイランに送還した。
3人は処刑された。
アフガーニーは、国王暗殺の翌年に病死した。
アフガーニーが普及に努めた『パン・イスラーム主義』は、その後しばしば注目されるようになった。
その意味では、彼の思想は特筆できるものである。
○村本のコメント
アフガーニーは先覚的なイスラム思想家として有名なのですが、すべての宗派を平等に位置づけたわけではなく、国王の暗殺に関与するなど、負の側面もあります。
すべての宗派に等しい価値を認める、真の『パン・イスラーム主義』が、今こそ求められています。
(2014年1月18日)