ロシアの弱体化と日本の躍進を見たイランは、立憲革命を起こす
初の憲法が制定される

(物語イランの歴史、誰にでもわかる中東、から抜粋)

第5代国王ムザッファル・アッディーンの時代(1896~1907年)になると、イラン宮廷の腐敗はさらに深まった。

病弱なムザッファルは、病気の治療を兼ねたヨーロッパ大旅行を数回も行い、そのつどロシアとイギリスから膨大な借金をした。

そして借金返済のために、外国に利権を与えたり、関税を引き上げたりし、インフレと食料不足が進行した。

日本が日露戦争(1904~05年)で一応の勝利をし、ロシア革命(05年)が起きると、イランは「ロシアはもう干渉してこない」と考えるようになった。

アジアの日本がロシアに勝利した事は、多くのイラン人に自覚と変革への欲求をもたらした。

イラン人は、日本の勝利の原因に考えをめぐらした結果、「日本は立憲君主制だから、非立憲国家のロシアに勝てた」との結論に至った。

そして、「イランでも憲法を制定しよう」との動きが加速し、人々は憲法を要求するようになった。

イランの『立憲のための革命』は、1905年12月に、聖職者と商人がテヘランのモスクに集まり、「アミーノッドウレの解任と、司法省の設立」を要求した事から始まった。

さらなるロシアへの借金と、不当な商人の逮捕が行われたため、彼らはテヘランのモスクに立て籠もって抗議した。

ムザッファル・アッディーン国王は、この要求を実行すると約束しながらも、履行しなかった。
そして、運動の指導者だった聖職者たちを、追放した。

このため、運動はさらに高揚した。

1906年7月に、市民のデモ行進に軍が発砲をすると、それを契機にして1.4万人がテヘランのイギリス公使館に押し寄せて、立て籠もった。

イラン政府は抗しきれずに、アミーノッドウレを解任し、国会の開設を約束した。

こうして初の議会選挙が行われたが、投票できたのは貴族と富裕階層だけだった。

1906年10月7日に、第1回の国会が開かれた。

そして12月30日に、イラン初の憲法が制定された。

この憲法は、ベルギー憲法をモデルにしており、1979年にパフラヴィー王制が打倒されるまで存続していく。

(2014年1月19日に作成)


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