日清戦争 日本が企図して始めた戦争

(『朝鮮近代史』姜在彦著から抜粋)

『全州和約』が成立すると、朝鮮政府はすぐに、朝鮮に駐留している日清両国の軍隊に撤兵を要求した。

(ここまでの経緯について分からない方は、こちらのページを見て下さい)

全州和約に狼狽した日本政府は、戦端を開くための口実を作ろうと画策した。

そして、「日清両国で朝鮮の内政改革をしたい」と要求した。

朝鮮は、「内政改革は外国の干渉なしに行いたい」と言い、自主的に改革を進めるために校正庁を新設した。

清国政府も、「内政改革は朝鮮に任せるべきである」と言って、日清の共同撤兵を主張した。

すると日本は、「単独でも内政改革を遂行する」と言って、撤兵を拒否した。

日本が改革を要求したのは、朝鮮侵略および清国と戦争をするための口実であった。

外相の陸奥宗光は、1894年7月12日に外務省・参事官の本野一郎を朝鮮に派遣して、「日清の衝突を促すのは今日の急務だから、これを断行させるためにあらゆる手段をとれ」と大鳥圭介・公使に指示した。

日本は、「出兵するのは、日本人の居留民を保護するためだ」と主張していたが、それは口実であり、初めから戦争を目的にしていた。

日本は7月21日に、朝鮮政府に対して、「朝鮮にいる清国軍を撤退させること」と「清国との全ての条約を廃棄すること」を一方的に通告した。

そして、「48時間以内に回答をせよ」と強要した。

朝鮮政府は、「日本軍が駐留しているから、清国軍も撤兵できないのだ。清国との関係は、朝鮮政府が決める」と回答した。

日本は、大鳥公使を中心に、回答の内容いかんに関わらずクーデターをするため、準備を進めていた。

そして回答の時限がすぎた23日午前3時に、日本軍は王宮を包囲して閔妃一派を駆逐し、大院君を担ぎ出して執権の座につけた。

そして日本軍は7月25日に、宣戦布告をせずに清国軍艦を攻撃し、日清は戦争状態に入った。

(日本は8月1日に宣戦布告をした)

日本軍の不意打ちから始まった日清戦争は、日本の勝利のうちに進むが、この戦争は清国の総力をかけたものではなく、李鴻章の北洋軍だけの戦争であった。

さらに、李は戦争遂行に積極的ではなかった。

(2015年1月31日に作成)


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