(『そうだったのか!現代史2』池上彰著から抜粋)
金正日が国のトップになった1994年頃から、「北朝鮮は食糧不足で、餓死者も出ている」との情報が、中国に逃げ込んだ難民の証言として伝わり始めた。
1995~98年に、北朝鮮を大飢饉が襲った。
農業不振のところに、天候不良と大洪水があったからだ。
難民からの聞き取り調査によると、300万人が餓死したらしい。
北朝鮮の人口は2200万人なので、10%以上の人が死んだ事になる。
韓国の国家情報院も、「1995~98年の3年間に、250~300万人も減少したことが、北朝鮮の内部文書で明らかになった」と発表している。
この大飢饉に対して、各国や国際援助団体からは、食糧支援が行われた。
ところが北朝鮮の政府は、住民に食糧を届けるのを確認させなかった。
そのため、「食糧援助が国民に届かず、軍の備蓄に回されているのではないか」との疑念が生まれた。
北朝鮮は疑惑を否定せず、事実だったようである。
こうした状況のため、大量の難民が中国に逃げ込んだ。
北朝鮮と中国の国境は、鴨緑江と豆満江の2つの川で形成されている。
このうち豆満江は、冬には凍結するため、歩いて渡ることが出来る。
難民たちは、韓国への亡命を求めている。
しかし、北朝鮮と中国は『亡命者を送り返す協定』を結び、取り締まりを強化している。
このため、中国にある外国の大使館などに逃げ込む手段が増えた。
1989年6月に出版された『どん底の共和国』という本は、北朝鮮の農業不振の原因を見事に分析している。
この本の結論は、「主体農法と呼ばれる農業政策にすべての原因がある」だ。
『主体農法』とは、主体思想を農業に適用したものである。
分かり易く言うと、「金日成という独裁者が指導した農業」だ。
金日成は、耕地の拡大(食糧の増産)を図ったが、平野部はすでに田んぼになっていた。
そこで、「山に段々畑を築いて、そこにトウモロコシを植えろ」と指導した。
段々畑化は、1970年代初めから、全国で一斉に開始された。
山を段々畑にしたので、全国の山がハゲ山になってしまった。
段々畑での栽培は、土壌をしっかり保持する、茶やミカンなどの多年草でなければならない。
ところが、植えたのはトウモロコシである。
土壌を保持する力が無いので、雨が降ると土砂が流出し、段々畑は崩壊した。
さらに、土砂が海に流れ込んで、海底の海草が全滅し、漁業も不振になった。
コメ作りでも、主体農法は失策をした。
金日成は、「密に植えて収穫量を上げよう」との素人の発想をし、それを命じた。
そのため、稲はヒョロヒョロになって、収穫量は激減した。
さらに、田植えは全国で一斉に実施されたため、寒い地方では霜の害を受けた。
田植えの時期は、本来は地方ごとに異なるものである。
こうした失策に対して、異議を申し立てる事はできない。
「金日成さまに逆らうのか」と、指弾されてしまう。
個人崇拝が、農業不振の原因である。
(2014.1.4.)